差延。デリダ「署名 出来事 コンテクスト」。反覆〔イテラシオン〕と反復〔レペティシオン〕。

GdGでは当然Margesから引用されていますが、手元に『理想』に載った「差延」論文がないのでそれは後回しにして、『有限責任会社』にも載っている「署名 出来事 コンテクスト」から抜書き。

有限責任会社 (叢書・ウニベルシタス)

有限責任会社 (叢書・ウニベルシタス)

まずコンディヤックにかんしてつらつらと述べた後、

書かれた記号の意味作用についてのこうしたタイプの分析が、その原理においては、コンディヤックとともに始まるのでも終わるのでもないということは、容易に示しうるだろう。いま、こうした分析を「観念学的〔ideologique〕」と呼ぶのだとしても、まずもって、そうした考え方を諸々の「科学的」概念と対立させるためにではない。あるいは、この観念学*1という語は今日その可能性と歴史において問い質されることはごく稀なのであるが、この語が用いられる際のしばしば独断的な――「イデオロギー的〔ideologique〕」とも呼びうるだろう――用法に準拠するためでもない。私がコンディヤックのようなタイプの考え方を観念学的と定義づけるとすれば、それは、こうした考え方が、【観念】(エイドス〔形相〕、イデア)の明証性によって支配された一つの広範で強力かつ体系的な哲学的伝統を背景に、フランス「観念学者*2」たちの考察の領野を浮かび上がらせるからであり、そこに彼らは、コンディヤックの残した道筋において、観念の表象としての記号の理論、しかも観念それ自体は知覚された事物を表象しているというそうした記号の理論を練り上げるのである。こうしたことからコミュニケーションは、観念内容(意味と呼ばれるであろうもの)としての表象を運ぶのだとされる。そしてエクリチュールはこうした一般的コミュニケーションの一種となる。「一種」というのは、つまり、一つの類の内部で相対的な種差性=特有性を含んだコミュニケーションということである。

こうした分析において、この【種別的に特有な差異】の本質的述辞とは何か、と自間するならば、われわれは〈【不在】〉を再び見出すのである。

私はここで、次の二つの命題ないし仮説を提出する。

(1) あらゆる記号は、「身ぶり言語」においても分節音言語においても(古典的な意味でのエクリチュールによる介入以前でさえ)、(規定されるべき)ある種の不在を前提とする。そうである以上、書かれた記号に対しどんなものであれ何らかの種差性=特有性を認めようとするのであれば、エクリチュールの領野における〈不在〉は、それ独自のタイプをもつものでなければならない。

(2) エクリチュールに固有の〈不在〉を性格づけるべくこうして受け容れられた述辞がたまたま記号とコミュニケーションのあらゆる種に適合するということになれば、ある一般的転位が帰結するだろう。すなわち、エクリチュールはもはやコミュニケーションの一種ではなくなるだろうし、また、エクリチュールがそれまで従属してきた一般性を伴うあらゆる概念(意味や観念としての概念、あるいは意味と観念の把握としての概念そのもの、コミュニケーションの概念、記号の概念、等々)は、無批判のものに思われる、つまりむしろ、ある種の歴史的言説の権威と力を確証するには、うまく形成されているわけでも充当されているわけでもないものに思われるだろう。

それゆえ、引き続きこの古典的言説をわれわれの出発点とすることによって、エクリチュールの機能の働きのうちに特有の仕方で介入してくるように思われるこの〈不在〉の性格づけを試みることにしよう。

書かれた記号は受け手の不在において差し出される。この不在をいかにして資格づければよいのか。私が書くとき、受け手は私の現前的知覚の領野に不在であることができる、と言うことはできよう。しかしこうした不在は、遠ざかった現前、遅延した現前、あるいは何らかの形態のもとで自らの表象において観念化=理想化される現前、たんにそういったものにすぎないのではないか。いや、そうは思われない、むしろ、エクリチュールが存在するというのであれば、エクリチュールの構造が構成されるためには、少なくとも、現前からのこうした距離、隔たり、遅延、差延〔differance〕が、不在であることのある種の〈絶対的なもの〉にまでもたらされうるのでなければならない。まさにその地点においてこそ、エクリクチュールとしての差延が、もはや現前の(存在論的)一変様では(あり)えないものとなるだろう。こう言ってよければ、私の「書かれたコミュニケーション」がエクリチュールという自身の機能をもつ、つまり自身の読解可能性をもつためには、それは、所定のあらゆる受け手一般が絶対的に消滅してもなお、読解可能にとどまらなければならない。私の「書かれたコミュニケーション」は、受け手の絶対的な不在、ないしは経験的に規定可能な受け手の集団の絶対的な不在において反復可能*3――反覆可能*4――でなければならないのである。こうした反覆可能性〔iterabilite〕(〈再び〉を意味するiterは、サンスクリット語で〈【他】〉を意味するiteraに由来するという。以下のすべては、反復を他性に結び付けるこのロジックの開発として読むことができる)は、エクリチュールのマークそのものを構造化しており、そのうえ、いかなるタイプのエクリチュールであろうと(旧来のカテゴリーを用いれば、絵文字、象形文字表意文字表音文字、アルファベット文字、それらのいかなるタイプであろうと)関係がない。受け手の死を越えて構造的に読解可能――反覆可能――でないようなエクリチュールエクリチュールではないだろう。これは一つの明証事だと思われるが、にもかかわらず、明証事であるからといってただちにこのことを認めさせようとするつもりはない。私はむしろ、この命題に対してなしうるであろう最終的な異議を検討することにしたい。次のようなエクリチュールを思い浮かべてみよう。それは、そのコードがまったく固有の語法をもって*5いて、二人の「主観」によって秘密の暗号として設定され知られていたにすぎない、そうしたエクリチュールである。では、受け手が死んでしまい、それどころかこの二人が共に死んでしまってもなお、彼らの一方が残したマークは依然としてつねにエクリチュールである、とひとは言うだろうか。確かになおもそう言うだろう、すなわち、当のコードが未知であれ非言語的であれ、ともかくも或るコードによってこのマークが規整されており、そのマークが、誰それが不在である場合でも、それゆえ究極的には経験的に規定されたあらゆる「主観」が不在であるという場合でも、自らの〈マークとしての同一性〉において自らの反覆可能性によって構成されている限りで、このマークはつねにエクリチュールであると言われるだろう。このことが含意しているのは、構造的に秘密であるようなコード――コードは反覆可能性の機関である――は存在しないということである。諸々のマークを反復できる可能性、したがってそれらを同定できる可能性がいかなるコードにも含み込まれており、だからこそ、そうしたすべてのコードが、第三者にとっても、またありうべきいかなる使用者一般にとっても伝達可能、伝送可能、解読可能、反覆可能な判読格子となるのである。それゆえ、いかなるエクリチュールも、それがエクリチュールであるためには、経験的に規定されたあらゆる受け手一般の根底的不在において機能しうるのでなければならない。そしてこの不在は、現前の連続的な一変様ではなく、現前の断絶であり、マークの構造に書き込まれた受け手の「死」ないしは「死」の可能性なのである(通りすがりに記しておけば、まさにこの点でこそ、超越論性の価値ないし「効果」が以上のように分析されたエクリチュールおよび「死」の可能性に必然的に結び付くのである)。私がここで反覆とコードに依拠することには、おそらく次のような逆説的帰結が伴っている。諸規則の有限な体系としてのコードの権威の、最終段階における破綻。同時に、コードのプロトコルとしてのあらゆるコンテクストの根底的な破壊。われわれはまもなくこの点について検討することになるだろう。

受け手について当てはまることは、いくつかの同じ理由から、発信者、マークを産み出す側の者にも当てはまる。書くとは、一種の機械を構成するであろうマークの生産であり、今度はこの機械が生産するものとなるだろう。私が未来において消滅するとしても、この機械は原理上機能し続けるだろうし、読ませ再び書かせるように仕向け、読ませ再び書かせるべく自らを与え続けることだろう。「私が未来において消滅する」と私が言うのは、この命題をよりいっそう直接的に受け容れ可能なものにするためである。私は、マークを発信したり産み出したりする際の、私自身の端的な消滅、と言うことができなければならない。つまり、自らの非‐現前一般を言うことができなければならないのであり、たとえばそれは、私の〈言わんと欲すること〉の非‐現前、私の〈意味‐志向〉の非‐現前、私の〈これを伝達*6したい〉の非‐現前である。書かれたものが書かれたものであるためには、それは依然として「働きかけ」続け、読解可能であり続けるものでなければならない――たとえ書かれたものの著者と呼ばれる者が自らの書いたものに、自らが署名したと思われるものに責任をもつことがもはやなくなったとしても。しかもその際、当の著者が一時的に不在である場合にせよ、死んでしまった場合にせよ、あるいは一般的に言って、この著者が自らの絶対的に顕在的で現前的な意図=志向や注意に、また自らの〈言わんと欲すること〉の充実に依拠することをせず、したがって「自らの名のもとに」書かれたように思われることそのものをこうした依拠において維持しなくなった場合にせよ、それらのいずれの場合でもかまわない。ここで、先ほど受け手の側について素描された分析をやり直すこともできるだろう。書き手および同意署名をする者の状況は、書かれたものに関して、読み手の状況と根本的に同じである。こうした本質的な漂流状態は、反覆的構造としてのエクリチュールによるものである。いかなる絶対的責任からも最終審級の権威としての【意識】からも切り離され、孤児としてその誕生時より自らの父の立ち会いから引き離されたエクリチュール、こうしたエクリチュールによる本質的な漂流こそ、まさにプラトンが『パイドロス』において糾弾した当のものなのだ。思うにプラトンの身ぶりが優れて哲学的な動きであるとするならば、ここでわれわれが関わっている争点の賭け金の大きさが推し量られるというものである。

あらゆるエクリチュールのこうした核心的な諸特徴がもたらす不可避的な帰結(すなわち、(1)諸々の意識ないし現前のコミュニケーションとしての、および〈言わんと欲すること〉の言語学的ないし意味論的な移送としてのコミュニケーションの地平との断絶。(2)意味論的地平や解釈学的地平が少なくとも意味の地平としてエクリチュールによって破裂させられる限りで、そうした地平からあらゆるエクリチュールは差し引かれるということ。(3)私が別のところで【散種】と名指した概念、これはエクリチュールの概念でもあるのだが、この概念を多義性の概念から、いわば【隔て=逸脱させ】ねばならない必然性。(4)厳密に言って、エクリチュールがコンテクストの理論的規定や経験的飽和を不可能ないし不十分なものにする以上、コンテクストの概念は「実在的」であれ「言語的」であれ失効し限界を示すということ)を明確化する前に私が論証しておきたいのは、エクリチュールの古典的な狭義の概念において認めることのできる諸特徴が一般化可能だということである。こうした特徴は「記号」の全次元とすべての言語活動*7一般に当てはまるというだけでなく、記号‐言語的なコミュニケーションを越えたところで、哲学が経験と呼ぶような領野、さらには存在の経験――つまり前述のような「現前」――と呼ぶような領野にもことごとく当てはまるであろう。

実際のところ、エクリチュールの古典的概念についての最小限の規定における本質的な述辞とは、どのようなものだろうか。
[19-25頁]

で、「本質的な述辞」が3つ列挙され、

これら三つの述辞は、しばしばそう信じられているように、そこに結び付くあらゆる体系とともに、語の狭義における「書かれた」コミュニケーションのためにのみ取っておかれるものなのだろうか。これらの述辞は、いかなる言語活動にも見出されるのではないか。たとえば話された言語において、また結局のところ「経験」がこうしたマークの領野から分離されない限りで「経験」の全体において見出されるのではないか。つまり、消去と差異の作用からなる判読格子、反覆可能性を備えた諸ユニットの格子において、すなわち――それらユニットの同一性を構成する反覆可能性そのものによってそれらが自己同一性を備えた一ユニットとはなりえない限りで――自身の内的ないし外的コンテクストから、そして自己自身からも分離可能な諸ユニットの格子において見出されるのではないだろうか。

ユニットの大小にかかわらず、話された言語の任意の要素について考察してみよう。この要素が機能するための第一の条件とは、ある一定のコードに照らしてそれが標定されるということである。もっとも、このコードという概念は私には確かなものとは思われないので、ここではこの概念にあまり関わり合わないことにする。むしろ、当の要素(マーク、記号、等々)の或る自己同一性がその要素の再認と反復を可能にするのでなければならない、と言おう。口調、声、等々――場合によってはたとえばある種のアクセント――の経験的な多様性を貫いて、いわばシニフィアン形式の同一性を再認できるのでなければならない。なぜこの同一性は、逆説的にも、こうした音声的記号を一つの書記素*8たらしめんとするところの、自己との分割ないし分離なのだろうか。その理由は、シニフィアン形式のこうしたユニットが、ただ自らの反覆可能性によってのみ構成されているからである。自らの反覆可能性によって、とはつまり、その「指示対象*9」の不在――これは自明だ――だけでなく、一定のシニフィエの不在において、もしくは顕在的な意味志向の不在、ならびに現前的コミュニケーションのあらゆる意図=志向の不在においても反復される可能性によって、ということである。指示対象やシニフィエ(それゆえコミュニケーションとそのコンテクスト)を断たれているというこの構造的な可能性が、たとえ口頭のマークであろうとあらゆるマークを書記素一般たらしめるように思われる、つまりすでに見たように、その「産出」ないし起源と称されるものから切り離された示差的なマークの非現前的な【残遺】〔restance〕たらしめるように思われるのである。【純粋な】現前の経験というものはなく、ただ諸々の示差的マークの連鎖だけがあるのだということが確実なものとされるならば、私は以上の法をあらゆる「経験」一般にまで拡張するであろう。
[27-28頁]

*1:イデオロジー

*2:イデオローグ

*3:レペタブル

*4:イテラブル

*5:イデイオマティック

*6:コミュニケート

*7:ランガージュ

*8:英訳によるとgrapheme

*9:レフェラン