スコット・ラッシュ「再帰性とその分身」/3

【3】再帰性――認知的か? 美的か?(Reflexivity: cognitive or aesthetic?)
【3-0】〔01〕‐〔02〕
247-248
(第一段落は誤訳が多いので訳しなおす)

  • しかし、I&C構造を通して流れるのは知識だけではない。つまり、近代における再帰性の構造的条件としては、概念的象徴だけが機能するのではなく、間隙を〔ヒトとヒト、モノとモノとのあいだを〕介した(in space)、全体的な他の 記号のエコノミー (an entire other economy of signs in space)も機能するのだ。この、他の記号論的semioticエコノミーは、概念的なものではなくミメーシス的なmimetic象徴のエコノミーである。それは、後期近代における、認知的ではなく美的な再帰性のための可能性を開くエコノミーである。
  • 概念的象徴、つまりI&C構造を通る情報の流れは、確かに、二つの方向性を横断する(cut, to be sure, two ways)。
    • 一方では、この象徴=流れは資本主義的支配の一つの新しい討議場forumを表象する。もはや、生産の物質的手段として、資本に第一に留められた権力などというものは存在しない(Here no longer is power primarily lodged in capital as the material means of production.)。代わって、情報様式の権力/知識複合体――いまや大規模に超国家的企業に結びついている――が 見出される。
    • 他方では、上で略記したように、これらの概念的象徴の流れと蓄積は再帰性の条件を構成する。
  • 同様のことが、「ミメーシス的」象徴、すなわちわれわれの記号経済学の他面を編制する図像images、音声sounds、物語narrativesにも妥当する。
    • 一方では、商品化されたもの、文化産業の知的財産として、これらの象徴は、その性質上、ポスト工業的な権力の《集合》に属している。
    • 他方では、その同じ権力/知識複合体への美的批判を普及させるための、潜在的かつ現実的な空間を開いている。
  • こうした再帰性の美的次元は、今日の消費者資本主義的な日常生活における「表現的個人主義」の基本原理となっている。

【3-1】概念的なものとミメーシス的なもの(The conceptual and the mimetic)〔01〕‐〔08〕
249

  • 再帰性は定義上、本質的に認知的なもののように思える。「美的再帰性」は語義矛盾であるように思える。したがって、いかにして美学は、いかにして自己の美的「契機moment」や美的「源泉source」は、「再帰的」であることが可能かと問わなければならない
  • まず、芸術art、あるいはわれわれの美的感受性がそれに対して(on)再帰的である《対象》に焦点を当てることでこの問題にアプローチしてみよう
    • 一方では、日常生活の自然的・社会的・心的世界に対して(on)再帰性はありうる
    • 他方では、「システム」、あるいは「システム」がそれによってこれら↑の生活世界のありとあらゆるものごとを植民地化する、商品化や官僚制化やその他の作動に対して(on)再帰性はありうる
  • 日常生活に対する美的再帰性は、概念的媒介ではなくミメーシス的媒介mediationによって生じる

250

  • 批判理論の啓蒙主義的伝統では、批判は普遍的なものによる個別的なものに対する批判であった。対照的に、ニーチェ同様アドルノにとって、批判は個別的なものによる普遍的なものに対する批判であった
  • 私のいう美的再帰性の概念はアドルノの概念に近い
    • 第一に、私はアドルノが提示する《媒介》mediationという過程を重要視したい。アドルノにとって、プラトン的・デカルト的な概念的反省が、多くの抽象的媒介をともなうものである一方、美的再帰性は、究極的ultimate媒介ではなく「近似的proximal」媒介を含意する(ニーチェにならって無媒介性〔すなわち直接性〕に依拠してしまうと、再帰性について語ることは問題含みになる)
    • 第二に、構造とagencyの複雑な弁証法において展開される、本書における再帰性は、暗にヘーゲル的であり、アドルノはヘーゲリアンである(ただし普遍的なものや全体性に対する一貫した批判を主張するヘーゲル

251-253

  • フレドリック・ジェイムソンによれば、後期資本主義の文化の論理は、一見、同一性主義者identitarianのそれにみえても――内在する弁証法的展開において――それ自体の非同一的批判non-identical critiqueを創り出す
  • 問題なのは、再帰的主体ではなく、すでに再帰的になった客体である。こうした客体は
    • 象徴集中的symbol-intensiveな知的財産として
    • 商品化されたものとして
    • 商品宣伝されたものとして
  • 三重に再帰的である

253

  • 哲学者は、(美的なものとしての)ミメーシス的なものと(理論的なものとしての)概念的なものとを対置する場合が多い。しかし、美的な空間においても、われわれは「記号作用semiosis」と「ミメーシスmimesis」との間に区別をもうけることができる
    • 記号作用のばあい、意味は、ひとつのラングa langue のなかの諸要素間の、差異・結合価valences・同一性を通して生み出される
    • ミメーシスは、類似性をとおして、「イコン的iconically」に意味する

253

  • 重要なのは、文化産業の対象が、再帰的になっている点である。つまり、文化産業の対象は、再帰的であり、ほとんど媒介されていない〔近似的媒介をともなう〕という点で、ミメーシス的である

254

【3-2】美的なもの、倫理的なもの、エスニックなもの(Aesthetique, ethique, ethnique)〔01〕‐〔07〕
256-257

  • こうした再帰的モダニティの理論なり再帰性の理論はいずれも、日常の経験による媒介と関係していく限り、再帰的である。再帰性の理論は、その理論が、反省の対象を日常生活の経験からそらし、代わりに「システム」に向けていく場合にのみ、批判理論となる
  • ベックとギデンズの認知的再帰性は、商品や官僚制の論理に対してではなく、伝統の変容に狙いを定めているために、批判にはなっていない

257-259

  • 今日、社会生活は、おそらく不安よりも、むしろリスクと関係している(たかだか確率論的計算をおこなうだけの主体)
  • 専門家が一般の人びとの再帰性によって批判の対象となる場合でさえ、議論されるのは、ある意味で確実性をめぐる専門家の言説である。とはいえ、このことは、批判力のある一般の人びとのおこなう――一般の人びと自体、多くの場合他の専門家の診断や助言に依存している――応答が、確率論的でないという意味では決してない
  • 自己の構築においては、確率計算的な規制のあり方がライフコースに物語性を加えていく
  • 確率論的な、「ピアソンの積率相関係数」がかつての実証主義による安全性の説明にとってかわっていったように、数量社会学でさえも、すでにリスク社会の一構成要素となっている

260-261

  • バウマンが示す課題は、結局のところ倫理的なものである。その意図は、美的原理にもとづく倫理を構築し、それをエスニシティの観点から理解していくことにある
  • この考え方では、ナチスによるユダヤ人大量虐殺を、「概念」の最終的勝利、同一性主義的、デカルト的モダニティの勝利と解釈している。カント哲学の定言命令のような先験的倫理学ホロコースト後には成立しえず、倫理学でさえ美的倫理、つまり、非同一性の倫理でしかありえない

261-262

  • おそらく求められているのは、判断の倫理学の終焉である。こうした見地に立てば、美的倫理は、判断そのものにたいする美的なものの勝利である 。それは、主体にたいする客体の復讐、つまり、同一性に対する差異の報復である