スコット・ラッシュ「再帰性とその分身」/4

【4】「私」、あるいは「われわれ」(The ‘I’ or the ‘We’)
(「図」によればこの節で「解釈学的再帰性」について説明)
【4-0】〔01〕-〔07〕
262-263

  • こうしたアレゴリーの哲学者の多くは、美的再帰性に必然的にともなう、主体と客体、普遍的なものと個別的なものとの転倒を、もっと直接的な社会的実践social practicesにおけるもう一つ別の一連の現象↓になぞらえている
  • 個別主義の危険性は、倫理的、美的共同体という「新たな部族意識」や自民族中心主義の出現である

264-265

  • 私が指摘したいのは、こうした分析での「共同体」という、つまり、「われわれ」という、いわば誰もが納得している観念にかなりの欠陥があるということである
  • そして、新たな社会運動による集団的抗議だけでなく、新たなるナショナリズムを理解するためには、「われわれ」についての多少とも徹底した考察が確かに必要とされている
  • さらに、共有された意味の無視が、つまり、「われわれ」の体系的不可能性が、アレゴリー的思考に体系的に不可分な要素となっている点を論じたい
  • 私は、美的再帰性という星のもとでの、つまり、概念のミメーシス的批判という星のもとでの「われわれ」の理解が、いずれも不可能であることを主張したい
  • 美的再帰性――アレゴリーとしての、あるいは脱構築としての――は、絶えず反基礎づけを志向している

266-268

  • これらの考え方がすべておこなおうとしているのは、個別的なものの観点から普遍的なものを脱構築することである→そうした常習的脱構築がわれわれ自身を「放浪の身に追い込んでいる」
  • 共同体にとっても「われわれ」にとっても、必要なのは、猜疑suspipicionの解釈学ではない。おそらく必要とされているのは「回復retrievalの解釈学」である。これは共同的世界内存在の存在論的基礎を説明しようとしている

【4-1】主体性から共同体へ(From subjectivity to community)〔01〕‐〔10〕
268-269

  • 共同体や集合体について理解しようとする今日の企てのなかでとりわけ実り多いのはCSである
  • 〔ただし〕むしろ、私の論点は、文化的共同体の可能性に関係しており、したがって「生産者」や文化的「テキスト」、文化的「対象」、「消費者」という用語そのものが、非常に重要となる。つまり、文化的共同体、文化的「われわれ」は、背景をなす共有された実践practice、共有された意味、意味の獲得に必然的にともなう共有化された型にはまった活動の集合体である

270-271

  • ディック・ヘブディジ『サブカルチャー』はサブカルチャー的共同体における「正統性(真正性 信実性)authenticity」について論じている→再帰的共同体=「投げ込まれ」るのではなく「みずからを投げ込んでいく」
  • CSでのサブカルチャー概念で問題になるのは「儀礼を通しての抵抗」という考え方である。これらの儀礼は以前の様式から切り離された、一連のシニフィアンsignifiersからなる「ブリコラージュ」によって構築されている
  • 問題は、シニフィアンの組み合わせに全体的に焦点を当てることが、共有された意味なり共有されたシニフィエsignifiedsであるサブカルチャーの基盤そのものを、つまり、あらゆるany共同体の基盤そのものを無視していく傾向がある点
  • ハイデガーの作業場のモデル。作業場が機能している場合、焦点は記号なりシニフィアンに置かれない。記号は即座に意味と見なされていく
  • したがって、シニフィアンのブリコラージュとしてのサブカルチャーに関する主‐客的想定から出発して、それから「われわれ」を理解しようとする試みは、CSの多くがそうであるのだが、それ自体が問題をはらんでいる

271-
(以下、ハーバーマスとチャールズ・テイラーにダメ出し。ハーバーマスにはねちっこく。テイラーにはジャブ)

  • ハーバーマスがとりわけ望んでいるのは、埋め込まれた社会的実践からなる生活世界、つまり、コミュニケーション的行為の相互主観性に立脚した、ヘーゲルのいう意味での《習俗規範Sittlichkeit》(具体的な倫理生活)である

以下検討。論点3つ。
272-273
(1)超越論的相互主観性transcendental intersubjectivityは共同体の基盤になりうるか

  • 「社会的なもの」は、行為を規制する抽象的な規則や規範から構成されるものであり、この意味で超越論的相互主観性は「社会」の基盤になりうる。しかし共同体はこれらの抽象的規則とはまったく異なる。むしろ《しきたりSitten》にもとづいており、《しきたり》は慣習customsであり、当然のことながら規則ではない

273-276
(2)コミュニケーション的合理性という、「論証によって補うことができる妥当性の主張」で共同体の問題に対処できるか

  • 発話行為理論は、「規則」によるさまざまな種類の言表の規制を想定しており、そうした規制は、共同体の反法則定立的な、《習俗規範的》な基盤に矛盾(ドレイファス)

276-277
(3)討議の領域

  • ギデンズと同様の欠陥。2人は、出発点として抽象的ないし「超越論的」な、主体と主体との間の関係を想定している。ハーバーマスにとって、それは相互主観性である。ギデンズにとっては、自己モニタリングをおこなう社会的agentの《内的》主観性である
  • ハイデガーの「作業場」モデルに立ち返りたい。世界内存在とは主体ではなく、《道具》を用いての実践や活動に夢中になり、「主体」との間ではなく、限られた数の他の人びととの間で共有された意味や実践に没頭している、そうした状況規定された人びとである
  • 共有された意味の崩壊が生じたときにのみ、人間は互いに「主体」になっていく。このことは、専門家システムが、筋の通った言説が立ち入っていく場である

278-281

  • テイラーは、共有された背景的想定がすでに再帰性を有している、そうした再帰的共同体の概念を、われわれに提示しているように一見思える
  • 〔しかし、〕かりにわれわれがすでに共同体を手にしているというのであれば、その場合、われわれは再帰的に共同体を作り出す必要性から免除されているはずではないか

【4-2】ハビトゥスハビトゥスを生きるもの、習癖(Habitus, habiter, habits)〔01〕‐〔06〕
281-282

  • 唯一可能な方法は、背景的実践background practiceからなるマトリクスのなかにすでに位置づけられている自己から、議論をはじめるべきなのかもしれない。ブルデューが「ハビトゥス」という観念に議論の出発点を置いているのもその一例

282-283

  • ブルデューのいう再帰性の概念:無思考なカテゴリーunthought categoriesそのものが、自己意識的な実践の前提条件になっていることを体系的に明らかにすることで、再帰性について述べている。反省が(ベックやギデンズとは違い)社会構造に対してではないこと、つまり、反省が制度的・構造的規則ではないことに注目したい
  • むしろ、再帰性は、「無思考なカテゴリー」にたいしてである

283-284

  • ブルデューは、意識された自己と無思考なカテゴリーとの関係を、《解釈学》的関係において提示しようとしているのであり、無思考なカテゴリーは、原因ではなく、解釈学的に説明されていくべきものである
  • また、無思考なカテゴリーは、実践意識の存在論的基盤ともなっている
  • 無思考なカテゴリーとは分類カテゴリーであるが、ブルデューのいう分類は、「趣味taste」 というカテゴリーである
  • ブルデューの『ディスタンクシオン』は意識的行為の――習慣というカテゴリーにおける――存在論的基礎づけの社会学なのである

284

285-286

  • ブルデューによれば、「規則」なり構造は、ハビトゥスを構造化していく際に立ち現われることさえない。その代わりに立ち現われるのは、明らかに規則と対置していく「慣習」や「先在傾向」である
  • ハビトゥスは、けっしてagencyと同じものではない。agencyの理論では、「単位行為unit act」という言い方をするが、「ハビトゥス」の理論では、進行中の活動ongoing activitiesという言い方をする

286-287

  • ブルデューや人類学者たちが用いる意味での再帰性は、認知的再帰性(ベック、ギデンズ)や美的再帰性アドルノニーチェ)とはまったく異なる領域で作動している。認知的再帰性においても美的再帰性においても、主体は、世界の外側にあるものと想定されており、世界は、主体にたいして(概念的ないしミメーシス的に)媒介されていく
  • 再帰的人類学は、その人の「応答者たち」が形づくる世界との地平の部分的融合を強いていく。再帰的人類学(と社会学)は、われわれがわれわれ自身の概念を、カテゴリーとしてでなく、解釈図式として、先在傾向や志向性として、われわれ自身の習慣として理解していくことを意味している
  • 再帰的人間科学は、われわれの図式とわれわれの応答者たちの図式との間の、翻訳の出現に依拠している