スコット・ラッシュ「再帰性とその分身」/5

【5】結語――再帰的共同体と自己(Conclusions: reflexive community and the self)〔01〕‐〔19〕
(すでに論じられたことが繰り返されている箇所はレジュメ化を省略した。この最終節はよくわからない)
287-293

  • 共同体は、共有された利害関心のことをいうのではない、共同体とは、共有された特性のことをいうのではない、「ライフスタイルの飛び地」は、ニッチ市場のように特性を共有しているが、共同体ではない
  • →個人化された消費について、7つの論点(291)→こうした近現代的消費形態は、いずれも共同体的規制が存在しない場合にのみ可能である
  • しかし、ポスト伝統的「ゲマインシャフト化」の諸々の形態という意味で、ある種の「趣味の共同体」がうまれてくる

294-295
再帰的共同体の例2つ)

  • MUのサポーター、コアなファン、環境保護団体の中核メンバーなど……これらの共同体は、次の点で再帰的である
    • 共同体のなかに生まれたり、共同体のなかに「投げ込まれる」のでなく、「みずからを」共同体のなかに「投げ入れる」
    • 共同体は、「抽象的」空間を超えて広範囲に拡大するが、時間も超えて拡大する
    • 共同体そのものの創造と、絶え間ない再創造という課題を意識的にみずからにたいして課していく
    • 共同体の「用具」や産物は、物質的なものではなく、抽象的かつ文化的なものになる傾向がある
  • ディアスポラ共同体は2つの意味で再帰
    • 一種の「移動可能な」世界内存在であり、出身国における「本来の」民族性に関して、ある種の媒介の役割をになうという意味において
    • 離散的な自己が、異端性を即座に自覚し、脱世俗化した、いわば《利害の衝突から超越した》地位の実現可能性を意識していくゆえに

298-300
(「自己」と「配慮」の問題)

301-302
(共同体が大事)

  • 私の論旨は、解釈学的再帰性と共同体を支持しながら、美的再帰性の個人化だけでなく、とりわけ認知的再帰性の個人化という主張にともに反対してきた
  • 今日の自己には、現実に三つの重要な源泉がある=認知的「契機」、美的「契機」、解釈学的・共同体主義的「契機」

304

  • 社会的なものから文化的なものへ(20世紀末)

307

  • われわれ自身もまた新たな部族ではないのか