ルーマンの「形式」概念とヘーゲルの「概念」概念の違い。「形式」は区別だが、それは区別された一方を指し示すことに依存する。自己の統一性をそのものとして実現することはできない(形式の統一性とは排除された第三項である)。

小論理学 上 (岩波文庫 青 629-1)

小論理学 上 (岩波文庫 青 629-1)

小論理学 下 (岩波文庫 青 629-2)

小論理学 下 (岩波文庫 青 629-2)

インデントはヘーゲルによる注釈、「補遺」とあるのはヘンニングによる補遺。例によって傍点は【括弧】。

  • (エンチクロペディーへの序論)

【第二に】、主観的理性は、【形式の点から言って】、経験的知識が与えうる以上の満足を求めるものである。そしてこの形式はすなわち最も広い意味での必然性である(第一節参照)。経験的科学の方法は次の二つの点で不十分なところを持っている。その一つは、経験的科学が含んでいる【普遍】、類、等々は、それだけ取ってみると無規定で、【特殊】との連関を持たず、普遍的なものと特殊なものとは互に外的であり偶然的であるということであり、また結合されている諸特殊もそれ自身としては互に外的で偶然的であるということである。もう一つは、経験的科学は常に【直接的なもの】、【与えられたもの】、【前提されたもの】からはじめるということである。この二つの点から言って、経験的科学の方法は必然性の形式を満足させないものである。こうした要求を満足させようとする思惟が真の哲学的な思惟であり、【思弁的な思惟】である。思弁的な思惟は、したがって、最初に述ベた思惟と【共通なもの】を持ちながら、同時に【異ったもの】をも持っているのであって、それは共通な諸形式のほかになお【独自の諸形式】を持っており、そしてこの独自の諸形式の普遍的な形式は【概念】である

このかぎりにおいて思弁的な学問の経験的な諸科学にたいする関係は次のごとくである。前者は後者の経験的な内容を無視せず、それを承認しかつ使用する。思弁的な学問は経験的な諸科学のうちに見出される普遍的なもの、法則、類、等々を承認して、それらを自己の内容のために役立てる。しかしさらにまた思弁的な学問は、経験的な諸科学からえた諸カテゴリーのうちへ他のカテゴリーをも導き入れかつ使用するのである。このかぎりにおいて両者の異る点はカテゴリーのこうした変化にあるにすぎない。例えば、思弁的な論理学は、以前の論理学および形而上学を含み、同じ思惟形式、法則、および対象を保存するものであるが、しかし同時により進んだ諸カテゴリーをもってこれらのカテゴリーを発展させ変形するのである。

思弁的な意味での【概念】と、普通に【概念】と呼ばれているものとは区別されなければならない。無限なものは概念ではとらえられないという主張が立てられ、それは幾千度となく繰返されて今では先入見とまでなっているが、この場合概念という言葉は普通用いられているような一面的な意味に理解されているのである。

  • 第三部 概念論

一六〇

概念(Begriff)は【向自的に存在する実体的な力】として、【自由なもの】である。そして概念はまた【体系的な全体】(Totalität)であって、概念のうちではその諸モメントの【各々】は、概念がそうであるような【全体】をなしており、概念との不可分の統一として定立されている。したがって概念は、自己同一のうちにありながら、【即自かつ対自的に規定されているもの】である。

補遺 概念の立場は一般に絶対的観念論の立場であり、哲学は概念的認識である。というのは、哲学はその他の意識が存在するものとみ、またそのままで独立的なものと考えているものが、単に観念的なモメントにすぎないことを知っているからである。悟性的論理学においては、概念は思惟の単なる形式、あるいは一般的な表象と考えられている。概念は生命のない、空虚な、抽象的なものだという、感情や心情の側からしばしばなされる主張は、概念にかんするこうした低い理解にのみあたるのである。実際においては事情はまさに逆であって、概念はむしろあらゆる生命の原理であり、したがって同時に絶対に具体的なものである。概念がそうしたものであるということは、これまでの論理的運動全体の成果として明かになっているのであるから、今さらここで証明するまでもないことである。概念を単に形式的なものと考えて、内容と形式との対立を主張する態度について言えば、われわれはすでにこのような対立を、反省が固定するその他のあらゆる対立と同じく、弁証法的なものとして、すなわち、それ自身によって克服されたものとして、後にしてしまっているのである。そして思惟の以前のあらゆる規定を、揚棄されたものとして、自己のうちに含んでいるものが、まさに概念なのである。概念は形式と考えられないこともないが、しかしその場合それはあらゆる豊かな内容を自己のうちに含み、また自己のうちから解放する、無限の、創造的な形式と考えられなければならない。同様にまた概念は、われわれが具体的なものという言葉のもとに、単に感覚的に具体的なもの、すなわち直接に知覚できるものを理解するとすれば、抽象的なものと名づけられないことはない。なぜなら、概念は手でつかめるものではないし、一般に概念を問題とするとき、目や耳は用をなさないからである。にもかかわらず概念は、前にも述べたように、同時に絶対に具体的なものである。というのは、概念は有および本質を、したがってこれら二つの領域の富全体を、観念的な統一において自己のうちに含んでいるからである。――前にも述べたように、論理的理念の諸段階は絶対者の定義とみることができるのであるが、そうすると今ここでわれわれが見出す絶対者の定義は、絶対者は概念である、という定義である。この場合われわれが概念を、悟性の論理学で行われているように、われわれの主観的な思惟に属する本来無内容な形式とのみみることなく、別のより高い意味に理解しなければならないのは言うまでもないことである。こう言うと、まず第一に次のような疑問がおこるかもしれない。それは、もし思弁的な論理学において概念という言葉が、普通それに結びつけられている意味とは全くちがった意味を持っているとすれば、なぜこの全くちがったものをやはり概念と名づけて誤解と混乱の種を作るのか、という疑問である。これにたいする答はこうである。すなわち、形式論理学で言う概念と思弁的論理学で言う概念との距りがどんなに大きかろうと、もっとよく吟味してみれば、概念という言葉のより深い意味は、一見そうみえるほど、一般の用語に縁のないものではないのである。われわれは或る内容を概念から導き出すと言う。例えば、財産にかんする諸法律を財産という概念から導き出すと言い、また逆にそうした内容を概念に還元すると言う。これは概念が本来無内容な形式にすぎないものではないことを認めているのである。というのは、もし概念がそうしたものであったら、何ものもそれから導き出せないであろうし、また与えられた或る内容を概念という空虚な形式に還元したところで、内容はその規定性を失うだけで、認識されはしないだろうからである。

一六一

概念の進展は、もはや移行でもなければ、他者への反照でもなく、【発展】(Entwicklung)である。なぜなら、概念においては、区別されているものが、そのまま同時に相互およぴ全体と同一なものとして定立されており、規定性は全体的な概念の自由な存在としてあるからである。

補遺 他者への移行は【有】の領域における弁証法的過程であり、他者への反照は【本質】の領域における弁証法的過程である。【概念】の運動は、これに反して、【発展】である。発展は、すでに潜在していたものを顕在させるにすぎない。自然においては、概念の段階に相当するものは、有機的生命である。かくして例えば、植物は胚から発展する。胚はそのうちにすでに植物全体を含んでいる。といっても、それは観念的に含んでいるのであって、したがってその発展は、植物の諸部分である根や茎や葉などが、非常に小さい形でではあるが【実在的に】、胚のうちに存在している、という風に解されてはならない。これはいわゆる「箱詰めの仮説」であって、その欠陥は、観念的にのみ存在しているものを、すでに現存在しているものとみるところにある。他方この仮説の正しい点は、概念がその過程において自分自身のもとにとどまり、過程は内容上なんらの新しいものをも定立せず、ただ形式上の変化をひき起すにすぎないということである。人間は生得観念を持っていると主張する人々や、プラトンのように、あらゆる学習を単なる想起とみる人々が念頭においているのも、その過程において自己を自分自身の展開として示す、こうした概念の本性なのである。もっとも、このこともまた、教授によって形成された意識の内容をなすものが、その意識のうちに前もって発展した形で存在している、という意味に解されてはならない。――概念の運動は言わば遊戯にすぎないとみることができる。その運動によって定立される他のものは、実は他のものではないのである。このことはキリスト教においては、こう言いあらわされている。すなわち、神はそれに対峙する世界を創造したのみではなく、そのうちで神が霊として自分自身のもとにとどまっている神の子を、永遠の昔から生み出している、と。

一六ニ

概念論は(1)主観的あるいは【形式的】概念の理論、(2)直接態へ規定されたものとして概念、あるいは【客観性】の理論、(3)【理念】、主観=客観、概念と客観性との統一、絶対的真理の理論にわかれる。

【普通の論理学】は主として、本書では【第三部の一部分】をなしている諸材料を含んでいるにすぎず、そのほかになお前に述べたいわゆる思惟法則と、応用論理学において認識作用にかんするいくつかの考察を含んでいる。しかしこれだけでは結局不十分であったので、心理学的な材料や形而上学的な材料、そのほか経験的な材料がこれに附加されるようになった。しかしこのためにこの学問は明確な方向を失ってしまった。――のみならずこの学問は、それだけは少くとも論理学固有の領域に属する思惟の諸形式をも、単に意識された思惟の諸規定、しかも理性的思惟ではなくて悟性的思惟の諸規定にすぎないと考えている。

これまで述べてきた論理的諸規定、すなわち有および本質の諸規定にしても、確かに単なる思惟の諸規定ではなく、その弁証法的モメントたる移行と自己および全体への復帰とのうちで、自己が【諸概念】であることを示してはいる。しかしそれらは【限定された】概念、即自的な概念、あるいは同じことだが、【われわれにとっての】概念にすぎない(八四節および一一二節をみよ)。というのは、第一に、各々の規定がそのうちへ【移行し】、そのうちで【反照し】、かくして相関的なものとして存在する【他のもの】は【特殊】(Besonderes)として規定されていないし、第二に、各々の規定がそのうちで統一へ帰る【第三のもの】は【個】(Einzelnes)あるいは【主体】(Subjekt)として規定されていないし、第三に、各々の規定は【普遍】(Allgemeinheit)ではないから、対立規定におけるその同一、すなわちその【自由】が【定立】されていないからである。――普通【概念】とは【悟性の規定】、あるいは単に一般的な【表象】とさえ考えられており、したがって一般に有限な規定と考えられている(六二節をみよ)。

概念の論理学は普通単に【形式的】学問と考えられ、それは概念、判断、および推理の【形式】そのものを取扱って、或るものが【真理である】かどうかは全く問題とせず、そうしたことは全く【内容】にのみ依存する、と考えられている。もし概念の諸形式が本当に、表象や思想を容れる、生命のない、無活動な容器であったら、その知識は真理にとって全く余計な、なくてもよい【記述】にすぎないであろう。実際はこれに反して、それは概念の諸形式として、【現実的なものの生きた精神】であり、現実的なもののうち、【これらの形式の力で】、すなわちこれらの形式を通じ、またそのうちで、真理であるもののみが真理なのである。にもかかわらず、これらの形式そのものの真理は、それらの必然的連関と同じく、かつて考察されたことがないのである。

    • A 主観的概念(Der subjektive Begriff)
      • a 概念そのもの(Der Begriff als solcher)

一六三

【概念】そのものは、次の三つのモメントを含んでいる。(1)【普遍】(Allgemeinheit)――これは、その規定態のうちにありながらも自分自身との自由な相等性である。(2)【特殊】(Besonderheit)――これは、そのうちで普遍が曇りのなく自分自身に等しい姿を保っている規定態である。(3)【個】(Einzelnheit)――これは、普遍および特殊の規定態の自己反省である。そしてこうした自己との否定的統一は、【即自かつ対自的に規定されたもの】であるとともに、同時に自己同一なものあるいは普遍的なものである。

個は現実的なものと同じものであるが、ただ個は概念から出現したものであるから、自己との否定的同一としての普遍的なものとして【定立】されている。【現実的なもの】は【即自的】にのみ、すなわち【直接的】にのみ、本質と現存在との【統一】であるにすぎないから、それは産出する【こともできるもの】にすぎない。しかし概念の個別性は、絶対的に【産出するもの】であり、しかも【原因】のように、他のものを産出するという仮象を持たず、【自分自身】を産出するものである。――しかし個は、われわれが個々の物や個々の人と言う場合に意味するような、単に【直接的な】個の意味に解されてはならない。こうした意味を持つ規定された個は、判断においてはじめてあらわれる。概念のモメントの各々は、それ自身全体的な概念なのであるが(一六〇節)、しかし個、主体は、統体性として【定立された】概念である。

補遺一 概念と言うとき、人々は普通抽象的な普遍をのみ考えている。したがってまた人々は普通概念を一般的な表象と定義している。かくして人々は色、植物、動物、等々の概念について語り、そしてそれらの概念がどうして作られるかと言えば、色、植物、動物、等々はさまざまであって各々はその特殊性によって互に異っているのであるが、この特殊性を除去し、それらに共通なものを固持することによって作られる、と考えている。これが悟性が概念を理解する仕方であって、感情がこうした概念を空虚なもの、単なる図式および影にすぎぬものとするのは正しいのである。しかし概念の普遍は、それにたいして特殊が独立の存在を持っている共通なものとはちがう。それは自ら特殊化するものであり、他者のうちにありながらも、曇りない姿で自分自身のもとにとどまっているものである。認識にとっても実践にとっても、単に共通なものを真の普遍と混同しないことが大切である。感情の立場から思惟一般、特に哲学的思惟にたいしてしばしば加えられる非難、および思惟をあまり遠く駆るのは危険だという、よく繰返される主張は、こうした混同にもとづくのである。真の包括的な意味における普遍は、人間の意識にはいるまでには数千年を要し、キリスト教によってはじめて完全に承認されるようになった思想である。ほかの点ではあんなにも高い教養を持っていたギリシャ人も、真に普遍的な神および人間を知らなかった。ギリシャの神々は、精神の特殊な諸力にすぎなかったし、普遍的な神、すなわちあらゆる民族の神は、アテナイ人にとってはなお隠れた神であった。またギリシャ人は、かれら自身と異民族との間には絶対の相違があると思っていたし、人間そのものが無限の価値と無限の権利を持っているということを認めるにいたっていなかった。人々は、現代のヨーロッパから奴隷制が消滅した根拠はどこにあるか、という問題を呈出し、この現象を説明するために、あれこれの特殊な事情を挙げている。キリスト教的ヨーロッパにもはや奴隷制が存在しない真の根拠は、キリスト教の原理そのもののうちにのみ求むべきものである。キリスト教は絶対的自由の宗教であり、キリスト教徒のみが人間そのものの無限性と普遍性とを認めている。奴隷に欠けているものは、その人格の承認であるが、人格は普遍性である。奴隷の主人は奴隷を人格とみないで、自己を持たぬ物とみる。そして奴隷は自己を自我とみず、主人がかれの自我である。――上に述べた単なる共通性と真の普遍性との相違は、【ルソー】の有名な社会契約(contrat social)のうちに見事に言いあらわされている。ルソーは、国家の法律は普遍的意志(volonté générale)から生じなければならないが、といって決して万人の意志(volonté de tous)である必要はない、と言っている。もしルソーが常にこの区別を念頭においていたら、かれはその国家論にかんしてもっと深い業績を残したであろう。普遍的意志とはすなわち意志の【概念】であり、もろもろの法律はこの概念にもとづいている意志の特殊規定である。

補遺二 概念の発生および形成にかんして悟性的論理学が普通与えている説明について、なお注意すべきことは、概念は決してわれわれが作るものではなく、また概念は全く発生したものではないということである。概念は単なる有あるいは直接的なものでなく、媒介をも含んではいるが、しかしこの媒介は概念自身のうちにあるのであって、概念は自分自身によって、自分自身と媒介されたものである。まずわれわれの表象の内容をなしているさまざまの事物があり、その後に主観的活動が行われ、そしてこの主観的活動がそれらに共通なものを抽象し総括する働きによって概念を作る、という風に考えるのは誤りである。概念は真に最初のものであり、さまざまの事物は、それらに内在し、それらのうちで自己を啓示する概念の活動によって、現にそれらがあるような姿を持っているのである。神は世界を無から創造したとか、あるいは世界およぴ有限な諸事物は神の豊かな思想と意志とから生じたとか言われるのは、このことを宗教的に言いあらわしたものである。そしてそれは、思想が、もっとはっきり言えば、概念が、無限の形式、すなわち自由な、創造的な活動であって、自己を実現するのに、自己は外に存在する材料を必要としないことを認めているのである。

一六四

概念は絶対に【具体的】なものである。なぜなら、個がそうであるような、即自かつ対自的に規定されたものとしての自分自身との否定的統一が、それ自身概念の自分自身との関係、すなわち普遍性をなしているからである。概念の諸モメントはこのかぎりにおいて不可分のものである。反省の諸規定は、対立した規定からはなれて各々それだけで理解され妥当するという意味を持っているが、概念においてはそれらの【同一性】が【定立】されているから、概念の諸モメントの各々は直接に他のモメントから、また他のモメントとともにでなければ理解できないものである。

普遍、特殊、個は、抽象的にとれば、同一、区別、根拠と同じものである。しかし普遍は、同時に特殊と個とを自己のうちに含んでいるという【意味をはっきりもつ】自己同一者である。また特殊は、区別あるいは規定態ではあるが、しかし自己のうちに普遍を内在させ、また個として存在するという意味を持っている。同時に個も、類と種とを自己のうちに含み、そしてそれ自身実体的であるところの主体であり根柢であるという意味を持っている。ここには、概念の諸モメントが区別されていながらも不可分であることが【定立されている】(一六〇節)。これがすなわち概念の【透明性】であって、概念のうちではいかなる区別も、中断や曇りをひきおこすことなく、あくまで透明である。

概念は【抽象的なもの】であるということほど普通に言われていることはない。これは、一方では、概念のエレメントが思惟一般であって、経験的な意味で具体的なものである感覚物ではないという意味では正しいし、もう一つには、概念がまだ【理念】ではないという意味では正しい。このかぎりにおいて主観的概念はなお【形式的】であるが、しかしそうだからといって、それが自分自身とは別の内容を持つとか、また受け取るとかいうようなことはけっしてない。――概念は絶対的形式そのものであるから、【規定されたもの】のすべてであり、しかも規定されたものの真実の姿である。したがってそれは、抽象的ではあるが、同時にまた具体的なものであり、しかも全く具体的なもの、主体そのものである。絶対に具体的なものは精神であるが(一五九節の註をみよ)、精神が客観から自己を区別しながら――もっとも客観は区別されながらも、あくまで【精神のもの】であるが――概念として【現存する】かぎり、絶対に具体的なものは概念であるとも言える。その他すべての具体的なものは、それがどんなに豊かであろうと、これほど内的に自己同一ではなく、したがってそれ自身に即してこれほど具体的ではなく、せいぜい普通人々が具体的と考えているようなもの、すなわち外的に結合された多様にすぎない。――人間とか、家とか、動物のようなものも概念、しかも特定の概念と呼ばれているが、これらは単純な規定を持った抽象的な表象にすぎない。これらの抽象物は、概念からただ普遍性の契機をのみ取り上げて、特殊と個は捨象しているのであり、したがってそれら自身に即して発展させられていず、まさに概念を看過しているのである。

一六五

【個】(Einzelnheit)のモメントがはじめて概念の諸モメントを区別として【定立する】。なぜなら、個は概念の否定的な自己内反省であり、したがって【最初の否定】として【まず】概念の自由な区別であるからである。これによって概念の【規定性】が定立されるが、しかしそれは【特殊】(Besonderheit)として定立される。言いかえれば、区別されたものは第一に、相互に概念の諸モメントの規定性を持つにすぎないが、第二には、一つのモメントが他のモメントと同じであるという同一性も同じく定立されている。かく概念の特殊性が【定立】されたものが【判断】(Urteil)である。

概念をわけて、【明白な】(klar)概念、【明白に識別されている】(deutlich)概念、および【妥当な】(adäquat)概念とする普通の分類は、概念に属するものではなくて、心理学に属するものである。というのは、明白な概念および明白に識別されている概念のもとに考えられているものは【表象】であって、前者は抽象的な、単純な表象であり、後者はその上になお一つの【徴表】すなわち【主観的】認識の目じるしとなるなんらかの特徴が浮びあがらされている表象であるからである。【徴表】という好んで用いられるカテゴリーほど、論理学の浅薄と堕落を徴表するものはない。【妥当】概念となると、前二者よりも概念を、否理念をさえも暗示してはいるが、しかしこれもまだ概念あるいは表象のその客観(外的な事物)との一致というような、形式的なことを言いあらわしているにすぎない。――いわゆる【下位】概念と【同位】概念は、普遍と特殊を機械的に区別し、外的な比較によって両者を相関させることにもとづいている。さらに【反対】概念と【矛盾】概念、【肯定的】概念と【否定的】概念、等々というような種別の枚挙は、思想の諸形態を偶然的に拾いあげることを意味するにすぎず、しかもこれらの諸形態は、すでにその場所で考察されたように、本来有およぴ本質の領域に属するものであって、概念の規定性そのものとは少しも関係のないものである。――概念の真の区別、普遍、特殊、個のみが概念の【種別】をつくるものであるが、それもそれらが外的反省によってひきはなされているかぎりにおいてのみそうである。概念が内在的に自己を区別し規定するのは、【判断】のうちでみられる。というのは、判断するとは概念を規定することだからである。