システム境界は空間的なものではない。どの作動もシステムの分出に寄与する。システムの境界とは作動の様式・具体化で、これがシステムを個別化する。これはベイトソンのいう「自己」に対応する。

精神と自然―生きた世界の認識論

精神と自然―生きた世界の認識論

例によって傍点は【括弧】。

  • V 重なりとしての関係[177-197頁]

線か袋のようなものがあって、その線(ないしインターフェイス)の"内側"に含まれる部分が"私"であり、"外側"が他人及び環境であると言ってよいのだろうか。一体どんな権利があって、われわれはこうした区別を行っているのか。

一般に無視されていることであるが、これらの問いに答えるためには、空間の言葉も時間の言葉も、それに頼るのがうまくないことは自明である。"内""外"という空間的比喩は、自分について、その包合・除外を語るさいには、適格ではない。

精神はその中に何物も含まない――豚も人もサンバガエルも。あるのは観念(差異の情報)だけである。引用符つきの"もの"、決して引用符の取れることのない"もの"、に関する情報だけである。そればかりではない。精神の内には、時間もなければ空間もない。"時間"、"空間"という観念があるばかりである。とすれば、個人を区切り取る境界が仮に存在するとしても、それは当然空間的な境界ではなく、集合論の図に使われる輪か、漫画の吹き出しに近いもの、ということになろう。

この他、本章では、"自分"に関する情報が結果的に"自分"に"変化"をもたらす、といった種類の【情報受信】(【学習】と呼んでもよい)にも焦点を当ててみたい。とりわけ自己の境界の変動という問題をここでは取り上げよう。"自分"と"外界"の境界は複数あるとか、必ずしも"自分"に中心はないという発見に焦点を当てた話になるだろう。

"われわれ自身"――自分についてのわれわれの観念――を変えてしまうような学習はいかにして起こるのか。そのような知慧(または愚)を、われわれはいかにして得ているのか。

ここでイヌとウサギとが、それぞれ独立した別個の生物であるという見方を捨てて、〈ウサギ‐イヌ〉の全体を一つのシステムと見よう。すると問いは、こんなふうに形を変える――この部分があの部分を追いかけることが可能であるためには、システム内にどんな情報重複*1が存在しなくてはならないか?そして追いかけぬわけにはいかなくなるためには?

こう考えると答えもかなり形相を変える。そこで必要とされる情報(ないしは冗長性)は関係についてのものに限られるのだ。ウサギは逃げることで、イヌに対し、追いかけろというシグナルを出したのかどうか?電燈の例が参考になる。手("私"の手?)がスイッチに触れた時、そこに手とスイッチとの関係についての情報が生じた。そしてその情報さえあれば、電燈をつけることは可能だった。私、私の手、スイッチについての個別情報は一切不要だった。

より大きな〈AプラスB〉が存在し、これが遊びの中で一つのプロセスを獲得していくのである。このプロセスには、プラクティス[演習]という呼び名がふさわしいと思う。これはシステム〈AプラスB〉が、外部から新しい情報を得ずして、【システム内部のみ】からの情報をもとに動く学習プロセスだといえる。相互作用がAの各部分からBの各部分へ、Bの各部分からAの各部分へと情報を調達する。これも、個を括りとる境界変化の一例である。