加藤秀一、2001、「構築主義と身体の臨界」上野(編)『構築主義とは何か』(勁草書房)

構築主義とは何か

構築主義とは何か

  • 客体としての身体、観念としての身体、現実としての身体
  • 過程としての身体
  • 二つの本質主義とその批判
  • 身体の物質性、あるいは、身体は存在しない
    • 【001】身体は〈社会的に構築〉される(social constructiion)。だがそれはどのような意味だろうか。
    • 【002】社会的構築主義と呼ばれるべき方法論が、われわれの身体という対象について成立しうるのだとすれば、それはどのようなものであるはずか。
  • 1|客体としての身体、観念としての身体、現実としての身体
    • 【101】身体は物質からできている。それは最も強い意味で自明視されている、すなわち、われわれが用いる「身体」という語の意味論において前提されている事柄である。
    • 【102】
    • 【103】
    • 【104】
    • 【105】「子供の誕生」とは、現在の私たちが知っているような、青年期や成人期と区別されて独自の意味づけを与えられた「子ども期」という「観念」(とそれに結びついた一連の諸制度・諸実践)の成立を意味しているのである。
    • 【106】
    • 【107】
    • 【108】問題は、身体という対象の実在性にかかわる。
      • 想像によってつくりあげられた観念としてのみ「身体」は存在する(かのように思われる)のであり、そのような構築作用以前にはいかなる意味でも(・・・・・・・・)「身体」などは存在しなかったのだと、有意味・・・に主張できるだろうか。
    • 【109】
    • 【110】むしろ「観念としての身体」への視線こそが、それに回収しきれない「物質としての身体」への問いを否応なく浮かび上がらせるのである。そして、それを何らかのやり方で思考の対象とするのでなければ、そもそも「身体」を問うたとは言えないだろう。かくしてわれわれは、物質としての身体、あるいは身体の物質性というテーマに帰還する。
  • 2|過程としての身体
    • 【201】「身体そのもの」は存在する。ただしそれは、構築された現実の身体から出発して遡及的に見出される抽象物としてのみ存在するのである。
    • 【202】だがいかにして〈身体の物質性〉を思考すればよいのか。
    • 【203】
    • 【204】相互作用種を相互作用種たらしめるもの、すなわち客体と観念との相互作用を可能にする装置、それが「身体」なのである。……社会的な力を身体的な力に――あるいはその逆の方向に――変換する、むしろそのような相互変換の場として、身体が定義されるのである。……これこそが身体論の照準すべき問いである。
    • 【205】
    • 【206】客体=物質でありながら同時に自ら社会的な主体として活動する身体そのものを構築する作用を、論理的に一段高次の社会過程に求めるような行き方が、固有の意味における〈身体の社会的構築〉と呼ばれるべきなのである。……ここで注意を払っておきたいのは、単に身体の二重性(物質性/社会性)を呈示する分析と、そうした二重性そのものがいかに構築されるかというより高次の問いに照準する分析との差異である。
    • 【207】〔前者の例:〕バーガーとルックマンの仕事は、その書名が表すように社会的な「現実」の知識社会学的解明であるが、そこでは身体はいわば「現実」からはみ出したもの・・・・・・・として扱われている。
    • 【208】〔後者の例:〕……まさにフーコーが身体における物質性と社会性との相互作用を「権力関係」というより高次の〈社会的〉作用から導出しているからである。

知への意志 (性の歴史)

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身体は消されなければならないどころか、問題は身体を一つの分析の中に出現させることである。それは、生物学的なベクトルと歴史的なベクトルとが、かつての社会学者たちの進化論のように前後関係に繋がるような分析ではなく、この二つが、生を標的とする権力の近代的テクノロジーの進展につれていよいよ増大する複雑さに応じて結ばれるような分析なのである。

    • 【209】……両項が編み出す「弁証法」ではなく、両項を結びつける「権力の近代的テクノロジー」という、それ自体が〈社会的〉な高次の働きなのである。……それは身体を一箇の〈現実〉として立ち上げ、その〈真理〉を語る……メカニズムの働きに照準する分析である。
    • 【210】……「いかにしてこの〈性〉という観念が権力の様々な戦略を通じて形成されてきたか」を問うだけでは、未だ〈身体の社会的構築〉には届かない。その一歩先で「それが[権力の諸戦略のなかで]どのような特定の役割を演じてきたか」を問うているからこそ、すなわち観念としての〈性〉セクスが社会的過程を通じて物質としての身体(・・・・・・・・に還流してゆくその仕方を解明することがめざされているからこそ、フーコーの仕事は〈身体の社会的構築〉という概念にとって範例的な意義をもつことになったのである。
    • 【211】〔身体は〕言説的に構築された性なるものの機能を重要な梃子として物質的に構築される物質そのものである。
    • 【212】「身体のまわりに、その表面に、その内部に、権力の作用によって生み出される」精神、「権力が身体にふるう支配のなかの一断片」としての精神。それはすなわち「ある政治的解剖の成果にして道具たる精神、そして、身体の監獄たる精神」である……

監獄の誕生 ― 監視と処罰

監獄の誕生 ― 監視と処罰

      • (注3)これは、心理が環境に影響される、といった主張とは異なる水準にかかわる記述である。「心理」や「意識」といった対象そのものの実定性を支え、われわれの認識におけるその存立を可能にする雛形のメカニズムを、フーコーは《精神》と呼んでいる。すでに存在する対象への外界からの「影響」ではなく、対象そのものの内在的な「構築」が、ここでは語られているのである。
    • 【213】『監獄の誕生』が分析を差し向ける水準、すなわち《精神》の「歴史的現実性」と不可分に結びつき、相互を可能にしあう身体の存在仕方を、〈身体の物質性〉と呼ぶことにしよう。すべての振る舞い、すべての活動過程の総体としての、運動としての、具体的な身体こそが問題なのだ。それに先立つ一次的な実体として想定される客体としての「身体そのもの」とはむしろ、そのような現実を生きる身体から抽象された二次的存在としての、メルロ=ポンティのいわゆる〈可能的身体〉であるにすぎない。

論理的観点から―論理と哲学をめぐる九章 (双書プロブレーマタ)

論理的観点から―論理と哲学をめぐる九章 (双書プロブレーマタ)

対象は、どのような名前のもとであろうが、また、名前がなかろうが、それ自体で、ある特徴は本質的にもち、他の特徴は偶然的にもつとみなされねばならない。

    • 【305】問題の焦点は、対象が「それ自体で」ある特徴を「もつ」というところにある。……「どのような言語手段によって対象が提示されるかとは無関係に、対象は様相的性質をもったりもたなかったりする」とするような考えかたを、本質主義と名づけて排斥したのである。

言語哲学大全 3 意味と様相 (下)

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    • 【306】〔対象において「本質的特徴」「偶然的特徴」という区別を認めることそのものを拒絶する、もう一つの「反本質主義」〕……具体的な社会的空間のなかで、ある特定の対象のある特定の性質がその対象の「アリストテレス的本質」であるとみなされていて、それが対象の社会的位置づけなどに影響をふるっているとき、右の如きラディカルな本質主義批判は、そのような本質主義という言語的慣習に異議申し立てを行ない、その変革を志向するという文脈において決定的な意味を持つ。
    • 【307】
    • 【308】
    • 【309】それに対して、性差の観念と結びついた性別は、社会的差別に結びつくような重大な指標として機能させられている。本当の問題はここにある。性差の自然化という問題に先立って、そもそもそれが問題としてとりあげられるための前提条件をなすような意味における本質主義の問題である。
    • 【310】……第二の意味での本質主義は、対象の様々な属性のなかに、「そのものをそのものたらしめる」という特権的な価値を与えられたもの(本質的属性)とそうではないもの(偶有的属性)とがあるという対立軸の上に登場する。性差が人間の本質的属性であり、女性性が女たちの本質的属性であるならば、それは当の属性が何に由来するものであるかにかかわらず、人間に《性差という本質》を認めるという意味において本質主義と呼ばれるのである。
    • 【311】本質をいかにとりあつかうかという問題は、しばしば不可視の前提として、懐疑の対象から除外されてしまう
    • 【312】
  • 4|身体の物質性、あるいは、身体は存在しない
    • 【401】
    • 【402】……われわれもまた、あくまでも具体的な諸活動の総体として生きられ生きる身体の物質性(materiarity)を、客体=物質(matter)としての「身体そのもの」という観念に対立するものとして概念化しようとしてきたからだ。その線上に位置づけられた〈身体の物質性〉とは、概念には回収されえないというメタ概念を自らの裡に折り畳んだ概念であり、その記号である。繰り返そう。まず身体そのものがあって、その諸性質があるのではない。さまざまな性質の総和、諸活動の把捉しがたく動き続ける連鎖だけが現実の、〈物質的〉なものとしての身体なのである。それに先立つ「身体そのもの」とは抽象概念でしかない。
    • 【403】本質が語られなければならないのは、本質などどこにも存在しないからである。
    • 【404】〈物質性〉という相において概念化された現実の身体について、明確な臨界線を描出することなどできないという事実こそが、「身体の臨界」という問いに対するさしあたりの解答である。