観察者は観察されえないものである。セール『パラジット』。

パラジット―寄食者の論理 (叢書・ウニベルシタス)

パラジット―寄食者の論理 (叢書・ウニベルシタス)

むちゃくちゃ面白いのでつい読み耽ってしまう。

セールは本書冒頭で、ラ・フォンテーヌの寓話「都会のネズミと田舎のネズミ」をとりあげる。本書は、この寓話の構図の様々な変奏とも言える。

都会のネズミがトルコ絨級の間に客を招く。田舎のネズミが招かれた客である。ふたりはごちそうのホオジロの残り肉をちぎり、ぼりぼりかじっている。この残り肉は、残りもの、残飯、食べ屑でしかない。ごちそうや、宴会といったところで、食事のあと片付けられないままにちらかしてある汚いテーブルの上での食事にすぎない。都会のネズミは何もこしらえはしない。彼はひとを招くのに一文もかからないのだ。ブールソーは彼の著書『イソップの寓話』のなかでこのことを指摘し、都会のネズミは肥え太った徴税請負人*1の家に住まっているのだとしている。油もバターもハムも塩豚もチーズもなんでも食べ放題だ。田舎の従兄を招待するのも、他人のふところで浮いた暮しをするのもたやすいことである。

徴税請負人もまた何も生産しはしない。油もハムもチーズも作りはしないのだ。しかし、力ずくでか、あるいは当然の権利でか、彼は生産物をくすねて自分のふところに入れてしまう術を心得ている。であるとすれば、彼の家のネズミは残りものを失敬するのであるから、ネズミは横領物をさらに横領する術を心得ているということになる。招待によって、最後には田舎のネズミに利益がもたらされる。宴は、知ってのとおり、突然オジャンになる。ふたりの友は戸口で聞こえた最初の物音*2で絨鍛の上から逃げ出す破目となる。それはただの物音にすぎないが、しかしそれは一つのメッセージであり、パニックの種となる情報のようなものである。それはコミュニケーションの妨害であり、その崩壊であり、ついにはコミュニケーションの断絶である。その物音は、本当に、メッセージであったのだろうか。むしろ妨害音*3ではなかったのか。結局、それが議論に勝ったのだ。それが混乱を広め、それが別の秩序の種をまいたのだ。だから、田舎にきたまえ。田舎では野菜スープしかないけれど、しかし、雑音もなく、ゆっくりと食べることがでぎるから。

徴税請負人は寄食者*4である。彼は地位による年俸を支給されている。それはかなり手厚い〔脂ぎった〕*5ものだ。だから王侯の饗宴、ホオジロの上等な料理が盛られたテーブル、トルコ絨鍛の間といった具合なのだ。都会のネズミは寄食者である。彼は、同じトルコ絨級の間で、地位の残り物、ホオジロの骨つきの残り肉をぱくついている。宴会には欠けたところがなかった、とラ・フォンテーヌはいっている。一匹目のネズミの食卓で、二匹目のネズミが食客となる。よくいわれるように、居候をきめこむというわけだ。いかなる機会も、一口のごちそうさえも逃しはしない。彼ら寄食者〔食客〕は全員が、厳密な意味において、口をはさむ〔干渉する〕のだ。すなわち、徴税吏は正直者に額に汗して働かせ、ネズミは徴税吏から税を巻き上げ、招待客は招待主から搾り取る。だがしかし、私の手からペンがすべり落ちる。その物音、すなわち最後の妨害音〔食客*6が、中断によって、この種の干渉者たちに打ち勝つのである。この寄食連鎖においては、最後にやってきた者がその直前に位置する者に取って代ろうとする。物音が田舎のネズミを追い払う。一方、都会のネズミは留まる。彼はあぶり肉を平らげたいと思っているからだ。任意の寄食者がその直接の上位レベルにある寄食者を放逐しようとするのである。

ものすごい物音、通りでのどよめきなどを想像されたい。その物音に徴税請負人は手にしていたものを思わずとり落とすことだろう。床のきしむ音や梁の裂ける音であれば、その建物のネズミたちが逃げ出すことだろう。
[2-4頁]

うまく抜書きできないな。どこを抜粋するのが適切か、わからなくなる。

観察者はおそらく、観察されえないものである。彼は少なくとも観察されうるものの連鎖の最後尾にいなくてはならない。もし取って代られれば、彼は観察されることとなる。したがって観察者は食客の位置にいる。それはただ単に、観察という行為が一方的な行為であって相互的な行為ではないという理由によるだけではなく、観察者はまた一連のつづきの最後の位置を占めでいるという理由による。見えるものの領域、視覚の領域、明白なものの領域のなかにあって、観察者はあるいはギュゲスのように、あるいは諸客体のなかの主体のように姿の見えない者であり、あるいはまた可能な限りもっとも目につきにくい者である。自分の存在に気付かれてはならない。臭いの領域にあっては風下に位置せよ。したがって食客は存在のなかでもっとも静かなものであるが、これはまさに逆説である。なぜなら彼の名前〔パラジット〕は雑音という意味だからである。原生動物や昆虫などのように小さいものであれば、彼は目に見えず、人はそれを感じない。彼は姿を消すために擬態を演ずる。彼は汚れのない白いシャツを着て、口をつぐみ、聞き耳をたてる。彼は観察をする。いや、そうではない。なぜなら、徴税吏の食卓での一件であなた方もよくご存じのように、穀物庫のなかのネズミたちは物音をたてるからだ。実際は、ネズミたちはドアのきしむ音よりも小さい音を、ドアを開こうとする者の足音よりも小さい物音をたてる。事実、観察者はネズミたちを見なかった。なぜなら彼はネズミたちの出す物音と比較して自分の出す物音を勘定に入れなかったからだ。観察者は観察されるものよりもつねに小さな音を出す。それゆえに観察者は被観察者からは観察されることがない。彼は他を混乱させるが、自分は決して混乱させられることがないのはこのような理由による。また彼が非対称な操作子であることはこのような理由による。彼は本質においても機能においても取って代るのだ。

彼は主体の位置にある。

主体*7〔臣下〕は、その名が示すように、下の方に投げられて、一連の連なりのなかで最後の位置にある。彼が最後の位置にいないならば、彼はもはや主体ではない。それは物音をたてない者というわけではないが、もっと小さな音をしかたてない者である。

知識とは「ハチが刺した」のゲームをするようなものである。
[396-7頁]

*1:フェルミエ・ジェネラル

*2:ブリュイ

*3:パラジット

*4:パラジット

*5:グラッス

*6:パラジット

*7:シュジェ