リベラリズム産業に抗して〜富永状無意識
■ 君こそ人の話を聞きなさいよ。。 00:01
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040508#1083994801
端的に dike でしょう……*1。そんなヘレニズム期の擬人化を持ち出してどうするのだね君たちは。*1:themis は比較的後代に成立した概念であることに留意せよ。
だからまあ、正義のような超越的命題(デリダの言う「脱構築し得ないもの」、ルーマンのいう「偶発性定式」)を導入するときには、神話のような意匠が召喚される、というたかだか社会学的な現象にすぎない、ということでしょうな。
そこで宮台氏@『親現実』が言うには、「じつは○○なんてないんだぜ、仮象にすぎないんだぜ」という小乗仏教(=カルスタポスコロ)では駄目で、その前段階に「○○はあるのだ」という大乗仏教(=下々のものへの啓蒙)が必要で、最終的に「○○はないが、あるかのようにふるまわないと社会は回らないのだ」という社会学的命題に到達しなければならない、ということになる。らしい(w。で、その3つを同時にやってるのが俺だ!と。
そこでかかる「啓蒙」に必要とされるのが、北田氏id:gyodaiktいわく「アイロニー」なわけだが、ぼくはそこが北田さんに対する(宮台さんにではなく!)違和でもあるんですね。つまり、「おれはアイロニスト」と言ってる奴がほんとにアイロニストなのかという疑い、あるいは、アイロニストを名乗るなら、どの範囲までがアイロニーなのかを明示しなければならないだろう、というカンジ。
というのは、リベラルな社会でなければたしかに我々は困るのだけれど、だから「あえて正義」なのか、「『責任と正義』は理論書などではなく俺達の世代の政治的アジテーション」だと言ってしまっていいものか――つまり、ほんとにほんとに「正義」を、つまり超越的命題をアイロニカルに仮構しているにすぎないといえるのか、という疑問がわくのですね。
ぼく自身は、「正義」なるやくたいもないものがなければ回らないような社会の社会学的社会分析にしか興味がないのだけれど――そして「正義」の機能的代替領域にはいかなるものがありうるか、あるいは、ほんとうに「正義」でもって社会が回ってるのか・観察者の構成物にすぎないのではないか、という仮説みたいなものが必要だと思っているのだけれど――「魂に対する態度」(by id:shinichiroinaba)、「存在の金切り声」(by id:gyodaikt)(という否定神学的超越的命題)に立脚してリベラリズムを語る人たちが、「ここのところは実はアイロニーなんだよ」と言うことができるのか・言う準備をしているのか、という点が疑問です。
ついでに、先日の講演会の感想等も含めて書いておこうと思います。
一次会詳細はhttp://www.asvattha.net/soul/index.php?itemid=326
ぼくはローティなんて一生読まないだろうな、つまんねーもん、と思っていたのですが、北田さんのローティ論はこれはもう抜群に面白いわけです(『反=理論のアクチュアリティー』所収)。ローティを徹底して形式化し、その形式を駆動する超越的命題を発見し、ローティをローティにぶつけてみる、という理論的技術が見事だし、先日の講演会もそういう意味で非常に面白かった。北田さんはぼくにとってはいまだつかみどころがない人だけど、やっぱりこれはすごい人なんだな、と認識しているのですね。
それで話は変わるのだけれど、富永健一daisenseiによれば、戦後の日本の社会学者の中で唯一リベラルといえるのは富永健一だけであるそうです(@日本社会学会%たしか大阪*1)。みんなこれを笑うのだけれど、本当に笑うことができるのだろうか?
北田氏がローティを形式化し、ローティにぶつけてみる、という理論的作業をやったように、これを富永氏に関して行った理論家はいるのだろうか? おそらくいない。志田・橋爪らによる構造機能主義批判は富永理論の批判ではなく、むしろパーソンズ理論の批判であり、ヘンペルやそれを受けたルーマンによって既に先行されている。また盛山和夫による「パーソンズはラカンである」という大胆な説(『理論と方法』)を受け入れてしまえば、いまだ決定的な批判になっているとはいえず、再考の余地があるものだ(とはいえルーマンの「機能と因果性」は決定的であってあれ以上のものは必要がないといえるし、パーソンズはルーマンとは関係なしに構造機能主義には立脚しない方向に進んだ)。
おそらくこういった事情は、「富永リベラリズム」の形式化が常に失敗を約束されているものであるというその性格に依存する。天皇とはそのように機能するものだ。戦後の日本の社会学の底流にはまさに富永健一リベラリズムが流れている。誰も見向きもしないというまさにそのことによって、富永天皇は存命を約束されている。ぼくはこの底流を、「富永状無意識」とよぶことにする。
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「リベラリズム産業に抗して」というタイトルで書きはじめてしまったので、つじつまあわせに、以下メモ書き。
- ぼくはリベラリストであるが、リベラリズム産業には抵抗したい。
- ぼくは「この世は『自由』である」という超越的命題にコミットしている。
- 物を手放すと自由落下free fallするし、そういう意味でこの世は自由だ。
- 自由なのだから、人殺しでもなんでもやればよいと思う。人殺しが嫌だと思ったら自由に法を実定し、法の下に「罪」を措定し、裁けばよいと思う。勝手に法が実定されるのが嫌だと思えば憲法なり基本権なりにうったえて法の実定に抵抗すればよいと思う。ようはみんな勝手にやればよいと思う。
- だからリベラリズムを「理論」と称して産業化するのも自由だ。勝手にしろ。でもなんかむかつくからぼくは勝手に抵抗する。
- ローティはデリダたちに「そんな小難しいことをぬかしておるが、そんな言い方で伝わるのかよ」と突っ込む。ぼくは「お前モナー」と思う。
- ぼくの妹はバークレーで教員をしているが、ローティのロの字も知らない。ちなみに彼女はジュディス・バトラーも知らなかった。まあ、バークレーのキャンパスは異常に広いから、他の教員のことなど知らないだろう。
- リベラリズム産業従事者は、いったい「誰に」伝えようと・語ろうとしているのか? 下々のもの=大乗仏教でやろうとしているのか? ローティはそうなのだろうか? しかしローティの言葉が下々のものに届くことはないだろう。読まれないから。
- 宮台氏はどうか? 彼は上述のように、段階論をワンアクションでやろうとしている。が、どうせ読まれないのだから、かつてのようにエリート主義=テクノクラート主義でやったほうがてっとりばやいのではないか? ぼくはテクノクラート主義の宮台氏に共感をおぼえる。
- もし自由に書くことが法的・政治的に許されない社会であれば、彼らは書かないのだろうか? 法的に不自由であれば、法に抗して書けばよいだけの話である。出版の自由がなければ、法に抗して印刷すればよいだけの話である。邪魔する奴がいれば、法に抗してぶちのめせばよいだけの話である。
- 換言しよう。「望ましい社会状態」を社会学者が設定するのは自由である。ただし、社会学者が言明できるのは、各政策の有効性の範囲であり、効果の範囲(副次的結果)であり、機能的代替領域であって、「社会状態」の望ましさの度合いではない。
- という意味で、ウェーバーの『客観性』論文を読みかえしてみよう。
*1:レジュメを紛失した可能性があり、どなたかコピーをいただければ幸いです。【追記】見つかりました。