社会システム理論 第4章第1節・第2節(11段落目まで)

金曜(2006年8月4日)の三田ルーマン研究会。

Social Systems (Writing Science)

Social Systems (Writing Science)

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

社会システム理論〈上〉

社会システム理論〈上〉

  • 第4章「行為とコミュニケーション」
    • 第1節「問題の提示」
    • 第2節「コミュニケーション概念の論理構造」

隔週で行っています。
次回は9月1日(金)(8月18日はお休みなので注意)、『社会システム理論』第4章「コミュニケーションと行為」第2節12段落目以降の予定です。
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今読んでいるのは『社会システム――一般理論の概説』第4章「コミュニケーションと行為」:

  • 第04章 コミュニケーションと行為
    • 01 問題の提示
    • 02 コミュニケーション概念の論理構造←イマココ
    • 03 フッサールデリダ
    • 04 コミュニケーションの受容と拒否
    • 05 コミュニケーションにおける誠実さの不誠実化の問題
    • 06 コミュニケーションにおけるテーマと寄与
    • 07 いかにしてコミュニケーションは可能か
    • 08 コミュニケーションと行為の相互連関
    • 09 コミュニケーション・システムの可能性
    • 10 おわりに

です。


以下、hidex読みが入り込んだ要約っていうか注解みたいなものをあげておきます。

 予定地

第01節「問題の提示」

[04-01-01]「社会システムの構成素はコミュニケーションである」というルーマンのテーゼは有名なものだが、ここでまず、「社会システムは行為から成り立つ」という見解について検討したい。

行為理論によって社会システム理論を基礎づけようという企図が、今日優勢である(それは社会学が伝統的に行為理論に依拠してきた・社会学とは行為理論を行うことであった・少なくとも行為主体を前提としてきた〔たとえば『相互行為』を単位とする場合でも〕ことから考えれば、もっともなことであろう)。

ウェーバーパーソンズも、それぞれ独特の制限=限定を用いながら、こうしたアプローチについて論じている。

  • ウェーバーにとって、社会的行為は行為の特殊ケースである。それは社会的に方向づけられた意図によって規定された行為である。
  • パーソンズにとって、社会システムが形成されるということは、行為の創発に対する貢献として特定されるものが存するということに他ならない(パーソンズウェーバー解釈には反する構想ではあるが)。したがって、社会システムはそれぞれが、行為のあるひとつのタイプ・側面に基づいているのであり、行為の主体が社会システムのなかで一定の位置を占めることになる。

[04-01-02]行為の一部が社会性だ、とする見解は逆転されなければならない。社会性が行為の特殊ケースなのではなく、行為が、コミュニケーションをとおして・また帰属をとおして・社会システムのなかで・その複雑性の縮減として、つまり、社会システムの不可欠の自己単純化として、構成される。

社会システムの自己言及は、コミュニケーションの水準とは異なるシステムとの、基礎構造の非連続を前提としている。精確にいえば、社会システムは、コミュニケーションとは異なる水準のシステムの選択的な相互調整だけから成り立っている。

[04-01-03]
社会システムの基底的(basal)過程は、社会システムの要素を産出しているが、そうした過程はコミュニケーションであるほかはない。社会システムの要素という統一を心理学的に規定することが排除される。〔ここでルーマンは第1章の「要素と関係」(すなわち基底的自己言及)についての項目へとリファーしているが、そこでルーマンは、要素が統一(Einheit=unity)として成立するのは、その要素を要素とする関係によってである、としている。つまり要素の統一にシステムは先行している。ここから定義上、社会システムの水準での要素の統一は、心的なものとは排他的関係になければならない。〕

そうだとすると、コミュニケーション過程は、行為といかなる関係にあるのか?

[04-01-04]
社会システムの最終的要素を、コミュニケーションとするのか行為とするのか、という問いのなかに、理論のあり方を決定的に定めている選択がある。

[04-01-05]通常の行為理論的見解と、コミュニケーション理論的見解の差異は、あまり意味のあることとはみなされていない。この差異の不明瞭さはそれなりに理由のあることだ。

コミュニケーションと行為は、区別することが必要だが、じっさいには切り離しえないという点に、また、コミュニケーションと行為がある種の関係を形成しており、そうした関係が複雑性の縮減を独自のやり方で果たしているという点に、問題の核心がある。

コミュニケーション過程は、自分自身を制御するためには、諸行為へと縮減され、諸行為に分解されなければならない。これによって、社会システムは、コミュニケーションの次の過程への接続基盤を獲得しているのだ。



第02節「コミュニケーション概念の論理構造」

[04-02-01]コミュニケーション概念を解明することが、コミュニケーションと行為の関係について分析をさらに進めるための前提なのである。ここで「移転」(Übertragung)メタファーについて考えてみよう。

[04-02-02]移転メタファーは役に立たない。所有・取得・受容といったメタファー(モノ・メタファー)はコミュニケーションの理解に適さない。

[04-02-03]移転メタファーにおいて、コミュニケーションの根幹は、移転という作用であり、伝達(Mitteilung)である。しかし伝達は、なんらかの選択の提示、つまりなんらかの提案の提示以外のなにものでもない。

[04-02-04]移転メタファーは、「移転される」ものの同一性を誇張する。情報が同一であることは、情報の内容によってあらかじめ保証されるのではなく、コミュニケーション過程においてはじめて構成される。

なんらかの情報が送り手と受け手にとって同一だとしても、その情報が双方にとってきわめて異なるものを意味しているということはありうる。

移転メタファーは二極の過程を示唆している。それゆえに、用語を再組織化しなければならない。

[04-02-05]意味概念から出発すると、コミュニケーションはつねに選択的な出来事である。

コミュニケーションは、それぞれの時点での顕在的な指示地平――この地平はコミュニケーション自体によってはじめて構成されるのだが――から何かを選び出し、それ以外のものをその時点では取り上げない。

そのばあい、〔「選択」という言葉から通常われわれがイメージするようなやりかたで〕なんらかのストックからどれかひとつを取り出すように選び出されていないのは明白だ。コミュニケーションにおいて現実化されている選択というものは、その選択自体の地平を構成している。〔ということは「出来事の生成」とか「現実化」とでも呼べば良いようなものだが、そのとき生成した出来事は、「選択」として自分自身を構成するのだ〕

言い換えれば、そうした選択〔出来事〕は、その選択〔出来事〕によって選び出〔現実化〕されるものをすでに「選択」として、つまり情報として作り上げている。そうした選択によって伝えられていることがらは、たんに選び出されているだけでなく、それ自体がすでに〔あらかじめ〕選び出しなのであり、だからこそ〔なにが「だからこそ」なのか?〕伝えられるのである。

コミュニケーションは三極の選択過程である。情報それ自体の選択性が、コミュニケーション過程のひとつの要因なのである。


[04-02-06]シャノンとウィーバー以来の工学的な情報概念に即しても、以上のことを定式化して述べることができる。

  • 情報は未知または既知の諸可能性のレパートリーからの選択である。
  • 情報の選択性がなければコミュニケーション過程は成立しない。
  • 意図的であれ非意図的であれ各人が情報を伝える行動を選び出さなければならない。
  • 決定的に重要なのは、第三の選択(理解)が情報とその伝達の区別に基づいているということ。

以下、伝達者を他者、宛て先を自我とよぶことにする。

[04-02-07]情報も伝達も有意味的解釈を必要とするので、その他者(Alter)は分裂に陥る。
この他者は、自分自身を意味世界=知りうる知識世界の一部とみなさなければならない。情報は、その他者が意味世界の一部であることをその他者に指し示しているから。
他方、この他者は、伝達行動をするかしないかの自由を自分に認めなければならない。自らを自己言及的システムとして駆使しているのである。
ディーター・ヘンリッヒはこのことを「彼の主体としての構えと世界所属との隔たり」とよび、この隔たりのうちに、統一的な生解釈の不可避性を見出している。

現代哲学の遠近法―思考の消尽線を求めて

現代哲学の遠近法―思考の消尽線を求めて

[04-02-08]しかしながら、社会学的に見れば、この隔たりは原初的(ursprünglich)なものではない。哲学でも〔機能分化が完成を見せることになる18世紀の〕カント以前にはこの隔たりについて何も知らなかった。

この隔たりは、超越論的に配置されている所与性(Faktizität der transzendentalen Situierung/facticity of a transcendental position)ではなく、自我が他者の行動をコミュニケーションとみなし、そうすることを通してこうした隔たりを受け入れるように他者にしむけているということからもたらされているのである。

重要なのは、こうした隔たりこそが状況である、という状況解釈の社会性によってはじめて、こうしたアポリアが生み出されているということである。

社会というコミュニケーション・システムがいっそう強力に分出することによってはじめて、こうしたアポリアが意識ののぼり、これを解決するための努力が文化的ゼマンティク〔=カント哲学〕のなかで生み出される。

コミュニケーションが成立するのは、情報と伝達の差異が観察・確認・理解され、この差異が接続行動の選択を基礎づける場合に限られる。

[04-02-09]コミュニケーション=三極の統一。コミュニケーションが創発的事象として成立するためには、三つの選択が綜合(Synthese)されなければならないということから出発する。

  • ビューラー(描写/表現方法/アピール‐区分)は、三つの機能のうちいずれが相対的に優位するのか、という問いに注意を促す。
  • オースティン(発話行為/発話内行為/発話媒介行為‐区分)は、コミュニケーションを切り離して分類する。

というわけで、↑はコミュニケーション的綜合という統一の前提条件を問うことからは離れている。

[04-02-10]情報、伝達および伝達がうまくいくことが統合(Zusammenfassung)されているのだが、そうした統合に注意を払ってみると、「コード化」が必ず前提されている。

伝達によって情報は二重化されざるをえない。すなわち、

  • 一方で、情報を外的なものにしておかなければならない(draußen lassen/leave it outside yet)。
  • 他方で、伝達のために情報を用いなければならず、それに適した第二の形式を情報に与えなければならない:例えば言語的(音声的、文字的などなどの)形式を。

社会学的に重要なのは、このコード化もまた、コミュニケーション過程の分出を引き起こしているということである。

いまや出来事は、コード化された出来事とコード化されない出来事とに区別されなければならない。コード化された出来事はコミュニケーション過程において[*1]情報として作用し、コード化されない出来事は攪乱(Störung)として作用する。

[04-02-11]コード化は情報と伝達の作動上の統一化(Vereinheitlichung)なので、自我と他者によって同様に扱われなければならない。

このため標準化が必要となる。

(明瞭に述べられた話は、話しかけられていないものにとって、たんなる雑音以上に撹乱的である。)〔音声ファイル中hidexが、ここでいう「攪乱」の意味が、前段落最後で言われる「攪乱」と整合するのかよくわからない、という意味の発言をしている。これは、こう解釈できないだろうか。明瞭に述べられた(伝達された)話(情報)は、言語的形式を与えられている。しかしアドレス先にとって【しか】「適切な」コード化ではない。ここでの「話」は出来事であるには違いないが、アドレス先でない者にとっては「情報」として作用しない、と。――しかし、「情報」として作用しない以上、すでにこれは[*1]コミュニケーション過程における出来事、ではないのではないだろうか??「攪乱」はコミュニケーション過程において生じるのか??〕

(どんなに不充分にコード化されているのであれ)コミュニケーションが成立するさいの最低限の前提条件は、自我として働くシステムが自らの過去によって完全に規定されることはなく、したがってそもそも、そうしたシステムは情報にたいして応答しうるということである。

情報をもたらす出来事をたんに知覚するのとは違って、コミュニケーションは、自我が情報そのものの選択と、伝達の仕方の選択という二つの選択を区別でき、この差異を自我自身で処理することができるということによってのみ成立する。

この差異を組み込むことによってはじめて、コミュニケーションはコミュニケーションとなり、情報処理そのものの一つの特殊ケース足りうるのである。

その差異は、第一に自我が他者を観察することのうちにある。自我は伝達と、その伝達によって伝えられるものを区別することができる。

他者が自我によって観察されていると知っている場合、他者は、情報と伝達のこの差異を自ら受け継いで習得し、自分なりに作り変え、それを活用して、コミュニケーション過程を制御するために、それを使用しうる。

コミュニケーションは、時間の進行順序に逆らって、いわば逆算して進められる。それゆえ、そのことを通して与えられる複雑性のチャンスの拡充は、予想ならびに、予想の予想を用いなければならない。このことのゆえに予期概念は、あらゆる社会学的分析にとって中心的な位置を占めるのである。