社会システム理論 第6章第2節

先週金曜(2007年07月20日)の三田ルーマン研究会。

Social Systems (Writing Science)

Social Systems (Writing Science)

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

社会システム理論〈上〉

社会システム理論〈上〉

  • 第6章「相互浸透」
    • 第2節「相互浸透概念」

隔週で行っています。8月は夏休み&オボンヌ休みとなります。9月からの再開についてはあらためて告知します。
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今読んでいるのは『社会諸システム――一般理論の概説』第6章「相互浸透」:

  • 第06章 相互浸透
    • 01 主題の設定
    • 02 相互浸透概念←イマココ
    • 03 オートポイエーシスと構造
    • 04 結合概念
    • 05 人と人との相互浸透
    • 06 二元的図式化と相互浸透
    • 07 道徳と相互浸透
    • 08 社会化と相互浸透
    • 09 身体と相互浸透

です。

第02節「相互浸透概念」


[06-02-01]われわれは「相互浸透(Interpenetration)」概念を、環境にあるシステムによってもたらされる、システム形成へのある特定の種類の寄与を指し示すために用いる。この概念のシステム/環境‐関係のうちへの位置づけは、非常に厳密に規定されなければならない――とりわけ、相互浸透の、非常に曖昧な了解が普及するようになっているからだ(6)。


[06-02-02]まず、相互浸透はシステムと環境のあいだの一般的関係ではなく、互いに互いが環境であるようなシステムのあいだの、間システム関係である。間システム関係の領域のなかでも、相互浸透概念は、さらに狭い一部を指し示す。なによりもまず、インプット/アウトプット‐関係(遂行(Leistungen))(7)から区別されねばならない。あるシステムが自己の【複雑性】(そしてそれとともに、未規定性、偶発性、選択圧力)を、【別のシステムの形成のために利用可能にする】とき、われわれはこれを【浸透】(Penetration)ということにする。まさしくこの意味で、社会システムは「生命(Leben)」を前提している。したがって【相互浸透】が存在するのは、こうした事態が相互に与えられているばあい、つまり双方のシステムが互いに、そのつど前もって構成されている自己の複雑性を他方にもたらし、それによって可能にしあっているばあいである。浸透の事例において観察しうることは、浸透するシステムの【行動(Verhalten)】は、受け入れるシステムによって同時に規定されるということだ(場合によっては、この受け入れるシステムから離れたところでは、方向づけを失い、迷走してしまう――蟻塚との連絡を失った蟻のごとく)。相互浸透の事例においては、受け入れるシステムもまた、浸透するシステムの【構造形成】に逆に影響を及ぼす。つまり二重に、外的に〔行動のレベルへ〕かつ内的に〔構造のレベルへ〕、影響を及ぼすのだ。依存性の増大にもかかわらず(いや、それゆえに!)より大きな自由度が可能になる。これは、進化の過程において、相互浸透は浸透の場合よりも、行動をより強く個別化〔個性化〕する(individualisiert)ということを意味している。

[06-02-03]このことは人間と社会システムの関係においてとりわけ明白である。相互浸透の概念はわれわれに、この関係のさらなる分析のための鍵を与えてくれる。それは自然法学説に取って代わるだけでなく、役割理論、欲求概念、社会化理論などの根本概念を用いて行われてきた社会学的試みにも取って代わる。人間と社会システムの関係は、いま述べた社会学的概念を用いるよりも、相互浸透として、より根本的に把握される。相互浸透はそれらを排除するのではなく、包摂する。

[06-02-04]次のことを思い起こそう。複雑性とは、複数の要素が、ここでは行為のことだが、選択的にのみ結び付けられうることを意味している、ということを。複雑性はしたがって、選択圧力を意味している。この不可避性は同時に自由、すなわち選択を様々に条件づける自由のことでもある。行為の規定はそれゆえ、通常、異なる源泉をもつ。心的なものと、社会的なものと。ある種の行為の安定性(=予期可能性)は、それゆえ組み合わせゲーム(kombinatorischen Spiels; combinatorial game)、混合動機ゲーム(mixed-motive game)の帰結なのである。進化は心的に受け入れ可能なものと同様、社会的に受け入れ可能なものをフィルタリングし、他方で、行為の種類、行為状況、行為の文脈、そして行為システムを、そこから心的あるいは社会的な条件づけを取り去ることで、破壊する。1883年の「建築依頼主(Bauherr)」が今日、家を建てようとするのを想像しさえすればよい。彼の予期は、技術的領域にだけではなく、社会的領域にも接続するものをほとんどまったく持たないことだろう。また彼自身が、彼と関わらなければならないすべての人にとって厄介者となることだろう。

[06-02-05]この概念の中心的契機はどんなに強調しておいても強調しすぎることがないだろう。相互浸透するシステム同士は、互いに環境であり続ける、ということである(8)。このことが意味するのは、こうだ。互いに提供しあっている複雑性は、受け入れるシステムにとって把握不可能な複雑性、つまり無秩序である。ゆえにこうも定式化できよう。心的システムは社会システムに充分な無秩序を供給し、逆もまた然り、というように。システムの固有の選択と自律は相互浸透によってゆるがされることはない。完全に規定されたシステムというものを想定したとしても、相互浸透によって無秩序に感染させられるし、その要素的出来事の出現が計算不可能性という事態にさらされるだろう。あらゆる再生産とあらゆる構造形成は、それゆえ、秩序と無秩序のコンビネーションを前提する。つまり、構造化された自己の複雑性と把握不可能な外部の複雑性とを。調整された複雑性と、自由な複雑性とを。社会システムの構築(および同様に心的システムの構築)は、ノイズからの秩序(フォン・フェルスター)原理に従っている。社会システムは、心的システムがコミュニケートしようと試みるさいに発生するノイズを基盤として成立するのだ。

[06-02-06]ここで選ばれている概念把握は、相互浸透するシステムがそれから成り立っている要素に焦点をあてるという、非常に単純な方法を意図的に避けている。人間と社会システムは個々の要素、つまり行為において、交差すると述べることで満足する誘惑にかられるかもしれない。行為は人間の行為であると同時に、社会システムの建築用石材でありうる。人間の行為なしに社会システムはありえないし、逆に人間は社会システムにおいてのみ、その行為能力を獲得できる。こうした見解は誤りではないが、単純すぎる。要素【概念】はシステム理論的分析の【最終要素ではない】。その点をわれわれは、複雑性の概念と同様自己言及的システムの概念にも基づいて強調してきた。それに応じ、要素概念の脱存在論化を行ってきた(9)。出来事(行為)は基体(Substrat)のない要素では決してない。しかしその統一は、その基体に、対応する統一をもっていない。つまりそれは、統一を使用するシステムにおいて、接続能力によって作り出されるのだ(10)。要素はそれらから成るシステムによって構成されるのであるが、これに関しては、複雑性が要素の選択的関係づけを要請するという事態〔すべてと結びつくわけにはいかないので選択的絞込みを行なうという事態〕がひと役かっている。したがって、モザイクにとっての切片ででもあるかのように、要素への参照でもってとどまっているわけにはいかない。要素を選択的に構成する能力をどう説明するのかという問いがすぐ後ろに待ち構えているからだ。「行為理論」が見ることができ、定式化できるよりもよりラディカルに、システム理論は選択性の構造的条件へとさかのぼることができるのである。

[06-02-07]こうした問いに関していえば、相互浸透概念は、ただ諸要素における交差のみを指し示すのではなく、結果としてそのような交差へと導く、諸要素の選択的構成への相互的寄与をも指し示す。重要なのは、人間の複雑性は、社会システムとの関連のなかではじめて発達しうるということであり、そういってよければ、社会的結合術の前提条件を満たすために、そうした行為を取り出す社会システムによって用いられもする、ということである。

[06-02-08]たしかに、相互浸透するシステムは個々の要素において収束する。すなわち、それらは同じ要素を用いる。【しかし、それらは諸要素それぞれに、異なる選択性と、異なる接続能力を与え、異なる過去と異なる未来を与える】。ここで問題になっているのは時間化された要素(出来事)であるから、収束は現在においてのみ可能なことだ。諸要素は、関与するシステムにおいて、出来事としては同一であるにもかかわらず、別のことを意味する。それらはそれぞれ異なる可能性から選択し、それぞれ異なる帰結へと導く。とりわけ、このことが意味するのは、次にまた収束が生じたとしても、それも【また再び選択である】ということである。つまり、システムの差異は相互浸透プロセスのなかで再生産される、というわけだ。そのようにしてのみ、ダブル・コンティンジェンシーは【偶発性(Kontingenz)として】可能なのだ――すなわち、その根底にある複雑性のために、つねに他でもありうるなにかとして、また、他の諸可能性との関連で顧慮されなければならないなにかとして。

[06-02-09]この概念の助けによって、ダブル・コンティンジェンシーの問題について議論したさいに(第3章)開いたままにしておかなければならなかった問いに、最終的に回答することができる。相互浸透概念はいかにしてダブル・コンティンジェンシーは可能であるかという疑問に答える。それは、人間の本性への参照によって回答することを避け、意識の(すべてを基礎づけると称する)主体性へと頼ることを避け、あるいは問題を(主体〔主観〕たちを前提とした)「間主観性」として定式化することも避ける。問題はむしろこうだ。ダブル・コンティンジェンシーが充分な頻度と密度をもって経験され、それを用いて社会システムの形成へといたることが可能となるような、どのような現実が前もって与えられなければならないのだろうか。答えは相互浸透である。相互浸透は明確に、それが答える問題の前提を精緻化している。問題なのはたんに、より低い層がそれ以上の〔層の〕形成がなされる以前に完成されていなければならないような、階層化された世界構成ではない。そうではなく、システム形成のより高次のレベルそのものの進化がある場合にのみ、そうした進化の前提が、適した形式にもたらされる、ということである。それらは使用によってのみ、成立するのだ。したがって、進化は【相互(Inter)】浸透によってのみ可能であり、すなわち、【相互的な(wechselseitige)】可能化を通してのみ可能なのだ。この意味で、システム理論的観点からすれば、進化は現実の中に(無の中にではなく!)自身を構成する循環的な過程である。

[06-02-10]相互浸透概念によって、行為とコミュニケーションを区別する必要は追加的意味を獲得する。行為の根本的特徴は、それが諸個人に帰属可能でなければならないということだ。つまり分離の原理を通して生成する。対照的にコミュニケーションは、三つの異なる選択の重なり〔伝達/情報/理解〕を通して生じる。この重なりは時々だけ、偶然にのみ起きることはありえない。恒常的に、予期可能なかたちで再生産されることができなければならない。もしそれ〔三極からなるコミュニケーション〕が、その価値を充分に確証されるなら、ひとつのシステム、自己選択を生産する能力を前提しなければならない社会システムが形成されうる。人間は伝達と理解のために必要とされるし、しばしばコミュニケーション接続において情報としてはたらくものを生み出すためにも必要とされる。相互浸透――すなわち創発システムの構築への複雑性の寄与――はそれゆえ、コミュニケーションの形式で生じ、また逆に、コミュニケーションのいかなる具体的開始においても、いつでも相互浸透の関係が前提されている。この循環は再び、社会システムは自己言及的システムとしてのみ生じうるということを表現している。それはまた、人間の、特定の、あらかじめ存在する属性は、社会システムの形成を可能にするわけではないということを確証する――中枢神経システム、可動的な親指、様々な音声を作り、自分でそれを聴くことができる能力、などなど。そうではなく、こうしたすべてが社会システムを生み出すのは、それが刻一刻とそれ自身の状態を【選択】し、【その点で】影響を受けうるという、【時間化された複雑性として前提されうる】場合のみ、そしてそうした理由でのみである、ということも確証する。