第2回

金曜の読書会で読んでいた"Closure and Openness"。読了。興味深いが、ドイツ語による講演→英訳(つまり原文なし)のため、かどうかは知らぬが、意味が取りにくいところがある。

でも興味深いことをいっている講演録であるのは確かなのでした。
キーワードは

  • 綜合的統一(unity synthesis)
  • 物質的連続体(materiality continuum)
  • 出来事/情報

Autopoietic Law: A New Approach to Law and Society (EUROPEAN UNIVERSITY INSTITUTE, SERIES A)

Autopoietic Law: A New Approach to Law and Society (EUROPEAN UNIVERSITY INSTITUTE, SERIES A)

I.

この論文はタイトルどおり、システムの閉鎖性と開放性についての記述となっている。すくなくともその記述をもくろんで書かれた(といっても講演だが)。
ルーマンのいう「システムは作動的に閉鎖している」というテーゼに対して、当時「さまざまな疑問・批判が表明された」(高橋 1997: 317)らしいのだが、第1節では「オートポイエティック・システムとはなにか」ということについて簡潔に述べられている。


【102】ひとつのシステムは、ひとつの環境においてのみ、それ自体を再生産することができる。もしシステムが継続的に刺激され、興奮させられ、動揺させられ、環境の変化に直面することがないならば、すぐにそのオペレーションを終え、そのオートポイエーシスを止めるだろう。……問題は依然として次のようなものだ。それ自身のオペレーションの継続のために、環境はいかにしてシステムに影響を与えるのか、またこれがシステムの自己再生産にどのような関連性をもっているのか。

次の一説は、「因果性」についての記述。


【103】オートポイエティックなシステムに関する理論が自己生産あるいは自己再生産について述べるとしても、これはシステムがすべての原因の全体性をコントロールするということを意味してはいない。反対に、そのような仮定は生産の概念を価値のないものにしてしまうだろう。したがって、明瞭な原因帰属を求める経験主義者は、「システムと環境は常に因果的に相互作用する」といった言明を生産についての曖昧な概念としてみなすかもしれない(例えばRottleuthner を参照、supra: 119、122)。他方、因果帰属についての多量の経験的な研究は、因果関係については〔いかなる認知図式がもちいられるかという〕選択的な判断を回避する方法がないことをわれわれに教える。このことは「本質的な」原因(システムまたは環境)の問題を、用いられる因果プラン〔認知図式〕の構造的条件の問題へとシフトする。

【104】この点でも、オートポイエティック・システムの一般理論はさらに明瞭な指針を与える。それは第一に、因果帰属を無視する。これは観察者にとっての問題であり、それゆえ観察されているシステムの構造およびオートポイエーシスによって扱いが異なりうるからである。オートポイエティックな閉じはしたがって、孤立を意味しない。また、内的原因が外的原因より重要だということも意味しない。そのような評価はシステムの観察に残されている。また、外部観察は互いに異なりうるし、内部観察とも異なりうる。問題が正確に表現されえないという単なる事実――結局、「より重要な」とはなにを意味するのか?――がこの命題を確証する。

ここでいう因果帰属についての多量の経験的な研究とは、社会心理学における帰属理論にもとづく実験のこと。


【105】オートポイエティックな閉鎖の概念はそれゆえ、はじめに、それ自身のオペレーションの結果へのそれ自身のオペレーションの回帰的な適用がシステムの再生産の不可欠の相であるとだけ述べる。これはシステムの統一性と自律性を定義している。


【107】もうひとつの出発点は、システムのオペレーションのみがシステムの構造を形成することができるという点である。このことも、システムのオートポイエーシスと矛盾をおこさないように行なわれるに違いない。たとえば社会システムの場合、コミュニケーションによって。したがって、システムの構造やオペレーションのインプットもアウトプットも存在せず、このレベルでは、環境との交換関係は存在しない。すべての構造は、システムの、作動的に自己特定的な構造であり、この構造はそのオペレーションをこれらの構造に向ける。つまりこの点でもまた、システムは回帰的に閉じたシステムである。システムと環境の区別を受け入れる者ならだれも否定しないことであろうが、システムはシステムの境界の外で、つまりその環境の中で作動することはできない。このことは、観察者が見ることができるように、システムと環境の関係はシステムのオペレーションとして現実化されえないということを、紛れもなく意味する。システムは、その環境に関するそれ自身の考えあるいはそれ自身のコミュニケーションを生産するかもしれないが、それによって、それ自身が環境として前提するすべてを把握することも再処理することも決してできない(とくにこの理由のために、環境は「地平」としてシステムに現われる)。

システムはシステムの境界の外で、つまりその環境の中で作動することはできない。


【108】認識論的な「構成主義」は、このことから次の結論を下す。システムがそのオペレーションの水準において現実としてみなすところのものは、システム自体の構成物であると。現実仮定はそれらを使用するシステムの構造である。これはまた回帰性の概念を使用することで明確にすることができる。システムは、作動的にその環境にアクセスできないのだが、それ自身のオペレーションの一貫性〔無矛盾性〕を確認することによって、環境をコントロールする。このために、一致(agreement)あるいは不一致を記録することができる二値図式を使用する。一貫性コントロールのこの形式なしでは、いかなる記憶も発生しえないだろうし、記憶なしではいかなる現実もありえない*1。

ここに注釈がついているフェルスターの「記憶」の定義も面白い。


*1 H. v. Foerster (1969: 19ff.) はさらに以下の事を示している。記憶とはこの一貫性チェックにほかならないこと、またそれゆえ、すべての認知的オペレーションと区別できない相として理解されるべきであること(つまり、ある種の「格納」ではない――運がよければ何かが見つかるかもしれないというような)。

また、〈システム/環境〉差異は「何ではないか」ということについて、次のように述べる。


【109】それは、例えば、オートポイエティックなシステムが混沌を秩序に変換する(ノイズからの秩序)、といったことを示唆する。そのような混沌は実際にはどこにも見つかりはしないのに、である。これを「秩序プラスノイズからの秩序」へと修正したとしても、この言明は非常に非明確なままであるため、あまりたいしたことは言うことができていない。明らかに、システムがそれ自身の外ではいかなるオペレーションも実行することができないという明白で些細な事実は、環境はシステムにとっての混沌であるというような流儀では理解することができない。


【111】自己言及的に閉じたシステムのテーゼは、このようにジレンマに結びつく。一方でそれは、いかなるシステムもシステムの環境でオペレーションを実行することはできないという、ほとんど否認できない事実を強調する。真剣に受けとるなら、これは、システムがその外側の現実へのある種類のアクセスを持っているかもしれないだとか、環境がシステムの構造を特定することができるかもしれないという、従来の考えを打破する。これは、神経生理学的な水準でさえ見つけることができない、特殊なオペレーション(たとえば感覚と反射の間の古典的区別という意味で)を要求するだろう。他方では、複雑なシステムの構造が形成されるテンポ(rate)は、システムを制限する、ランダムでない、構造化された環境というものの仮定を要請する。自己言及的システムの理論に基づく知識の理論は、このジレンマを解決し、両方の必要条件を満たすことができなければならない。

II.


【201】あらゆるシステムは、前提となる物質的連続体(materiality continuum)において生じる。マトゥラーナはそれをメディアとよぶ。例えばそれらは、ちょうど原子の構成が、結びつけられることが可能であるようなエネルギーを前提することがいうまでもないように、原子にもとづく物質の構造を前提とする。それゆえ、システムの形成の際、それぞれの個々の場合において、世界のいかなる種類の創生もありえない。このそれぞれのケースで前提されなければならない物質的連続体は、分化するシステムのシステム境界を気に留めることはない。それはシステムの内部と外部、両方にあるものだ。にもかかわらず、それはシステム形成の可能性を制限する。そのようなシステムだけが物質的連続体と矛盾をおこさないことが可能であるからだ。

ここで登場するmateriality continuumは、Die Wissenschaft der Gesellschaftでも"Materialitätskontinuums"というタームで使われている(S.30)。

Die Wissenschaft der Gesellschaft

Die Wissenschaft der Gesellschaft

ここだけを読むと、諸システムの内部にも外部にもあるような物質、システムが利用・使用する物質的なもの、すなわちシステムにとって基底的となる、基礎付けるなにものかについて論じているように見えてしまう。しかしそのような結論は保留しよう。
ところでこの論文をぼくが読みたかった理由は、次のフレーズを引用したかったからだ。


【203】作動的閉鎖性というテーゼはたんに次のことをいっているにすぎない。いかなるシステムであっても、自身のオペレーションがアクセスできることのみにアクセスできる。したがって、いかなるシステムであっても、そのオペレーションを通して統一(unity)として形成されることのできるもののみが、統一でありえる。これは、物質的連続体の高い複雑性、およびあらゆるシステムのオペレーションに不可欠な選択性に起因する。したがって、たとえば、人間の身体は生命の統一ではなく、意識的な知覚の、あるいはコミュニケーションの統一である。個々の細胞は、閉じたオートポイエティック・システムとして、遺伝子再生産のコンテクストの統一を別にすれば、身体のいかなる統一も観察できるようにはならない。有機体は再生産におけるひとつの推移的段階にすぎないからである。同様に、人格(person)は、コミュニケーションの目的のためにのみ形成された統一であり、たんに割り当てとアドレスのポイントでしかない。つまり、意識はそれ自身のオートポイエティックな統一を(人格としてではなく)形成するのだ(そのことは、その統一が人格であると意識が想像する可能性を排除しない)。

【204】肉体と人格性は、それゆえ、複雑性の縮減であり、綜合的統一(unity syntheses)である。それらはより高いオーダーのシステムにおいて、連続体の物質性の相を観察するために用いられる。高いオーダーのシステムは、(肉体と人格性といった)綜合的統一によって示された構造以外の、オートポイエティックなシステムの構造を扱わなければならない〔つまりその高いオーダーのシステム自身の構造を扱わなければならない〕。この意味で、「形式の法則」(スペンサー・ブラウン)に従って、身体(bodies)や人格(persons)がそれ自体であるところのものではなく、観察を通して在るところのものであるととらえることは、確かに許されることであり、必要なことである。

ぼくの関心は人格(person)の構成にあるが、目下とりかかっている身体の構成(いってみれば「身体論」の社会学的観察)にとって、上記のような身体の構成も興味深い。


【205】ポスト存在論的理論デザインが、次のように主張することはきわめてありそうなことだ。「在る」ものすべては複雑性の縮減を通じて形成されたものであること。結果としてオートポイエティックなシステムが、自分自身のオペレーションを通じて、システムにとってのひとつの統一として働くすべてを形成すること。このことは決して、すべてのシステムにとって(そして諸システムをあわせた全体にとって)物質的連続体の複雑性が存在すること、そしてそれに区別と指示を差し向けることを否定するわけではないため、同定および否定を適用することができるのだ。

「在る」ものすべては複雑性の縮減を通じて形成されたものであること。結果としてオートポイエティックなシステムが、自分自身のオペレーションを通じて、システムにとってのひとつの統一として働くすべてを形成すること。
これはゼマンティク論において詳細に論じられることだが、ここでシステムにとってひとつの統一として働く統一について述べられている。

III.

法システムは世界についてのありとあらゆる統一を生産するというような、過剰な負担を負うわけにはいかない。法は世界にすでにある言葉を使用するし、他のシステムの作動のモードに適合するように、社会的制限にかなうように作動しなければならない。


【302】法は社会においてのみ可能であるので、法システムのすべてのオートポイエティックなオペレーションはまた、常に社会のオートポイエーシスの継続である。ひとつのオペレーションから次のオペレーションへの規範的条件の移転もすべて、つねにコミュニケーションである。法は、化学的なオペレーションのモードも、心理的なそれすらも、使用することはできない(もちろんそのことは、それが化学的あるいは心理的結果を伴うことを排除しない)。これは、次のことを意味する。一方では、可能なコミュニケーションの社会的制限にそれは適合しなければならない。それゆえ、例えば言語を正確にあるいは少なくとも分かりやすく使用しなければならない。他方では、コミュニケーションはまた、現実の、社会の構成物が法へと媒介される方法である。法は、「女性」「シリンダ・キャパシティー」「住民」「タリウム」のような言葉が、法の内部でも外部でも十分に一貫性をもって使用されているかどうかということに関わる必要もなければ、関わることもできない。その程度まで、それは、コミュニケーションによるコミュニケーションの社会的再生産のネットワークによって維持されている。女性やその他のものが実際に存在しているかいなか、といった問題が生じたとしたら、それらは脇にどけられるか、あるいは哲学へと差し向けられうるだろう。

【303】たしかに、一般的な物理的/化学的/生物学的な物質的連続体は、社会システムの分化の特殊な効果とは区別されなければならない。しかしながら、システム分化は、システムの諸境界(この場合内的諸境界)に拘束されない連続的な現実の仮定をさらに強化する。そしてそれは、情報処理の結果として到達することができるようなものではない。この意味で、法はそれ自体では作り出す必要なしに、社会が既に成し遂げた現実構成に関与するのだ。それは言語および法システム内外の言葉の、多かれ少なかれ一貫した使用を利用する。


【304】それにもかかわらず、法はそれ自体ひとつのオートポイエティック・システムとして、社会内で分化する。それは、言葉に厳密な意味を与え、法的でないコミュニケーションでは理解できない意味を与え、それ自身の造語を加える(たとえば「義務」、「遺言」)、機能的に特定化されたコミュニケーションのネットワークを作ることによってである。それは法によって必要とされる変換をコミュニケート可能にするためである。タリウムがセメントの生産において必要であるかどうか、そしてそれはいかなる結果をもつのかといったことは、特に法的な問題ではない。しかしながら、この問題に法的な関連性を付加するのは、環境法が作り上げたケースであるかもしれない(し、そうでないかもしれない)。もし新しい発見がこの領域でなされたならば、その化学的・経済的重要性にかかわらず、法的な重要性を持つかもしれないし、そうでないかもしれない。構造が出現するのは、いったんシステムのオペレーションを通じて、法システムが作動的に閉鎖したシステムとして分化してからだけである。そのことは、環境の諸相の独自の選択を許し、強制する。

また、この節では、法システムにおいて認知的オペレーションよりも規範的オペレーションの方が優位である、認知的オペレーションは派生的なものである、ということが述べられている。

IV.

問題の、「出来事から成り立つシステム」についての節である。


【401】法の現実への言及についてのさらなる検討は、出来事のみから成り立つシステムの存在を前提する。この出来事は、変化することができるような持続を持たず、創発するとすぐに消えてしまう*4。それゆえそのようなシステムは、消えてゆく要素を別の要素で連続的に置き換えてゆくことによってのみ、持続を獲得できる、そのような不安定な要素から成り立っている。そして、生物学的な複製とは対照的に、これらは同じ要素である必要はなく、異なるタイプのものでありうる。コミュニケーションには、同じコミュニケーションが後続することはありえず、適切に異なったものが後続する。

*4 これがある時間を使い、その程度までは「見かけ上の現在(specious present)」という意味での持続を仮定する、ということまで否定する意図はない。重要な点は、出来事は、それが変化することが可能であるような持続を持たないということである。なぜならそのようなことは出来事をさらに小さな出来事へと分割することと等しいからである。

  • 出来事は
    • 持続を持たない
    • 創発するとすぐ消えてしまう
  • システムは出来事を別の出来事で連続的に置き換えることで持続する


【403】現実参照に関する限り、ほとんど同時に起こる消滅と再生へと方向付けられた、この特有の回りくどいシステム構造は特有の有利さを持っている。選択性および他の出来事との自己言及的な織り交ぜが、異なる諸システムに常に属する場合は、この構造は、出来事がいくつかのシステムにおいて同時に働くことを可能にする。したがって、コミュニケーションはつねに参与者の意識における出来事でもある。にもかかわらず、システムは分離したままである。なぜなら、出来事(それは意識的コミュニケーションconscious comunicationのひとつの出来事として一人の観察者によって同定されうる)は、場合ごとに、異なった他の可能性との関連で、異なったシステムから選択するからである。これが、場合ごとの出来事の意味を構成する。要素的オペレーションが出来事の性質をもつことは、様々なシステムの高度の相互浸透を保証することができる。出来事の消滅により、システムがお互いにくっついてしまうことを防ぐ。ゆえに、たとえきわめて不安定な形式であっても、システムと環境のきわめて近い関係が生産されうる。「物質的なもの」のはかなさはふたつの方法で利用される。システムの再生産という方向と、システムと環境の相互浸透という方向とに。

  • システムの要素であるオペレーションは出来事である
  • 出来事は異なる諸システムに常に属する
  • 出来事は異なる諸システムから選択する

ここの解釈も保留する。


【406】いかなるケースにおいても、堅いカップリングであれゆるいカップリングであれ、出来事を通したこの現実の媒介は、関連したシステムが情報として処理するものと区別されなければならない。情報とは、システムにとってもっぱらに内的な選択にほかならない。そしてそれはシステムの選択地平によって条件づけられている。それゆえ、いくつかのシステムにおいて同時に現われた出来事が、それらのシステムによって情報として用いられることは、可能なことでも必然的なことでもない。これに相応して、ひとつの出来事と、それと同じ出来事のびっくり価値はシステムごとに異なる。政治政党への経済的貢献の有名な実践は、法システムにとってのみびっくりであることだったが、いっぽう政治システムは法システムがそれによってびっくりするという事実によってのみびっくりし、経済はそのようなわずかな金額にいかなる重要な情報価値をも帰属することはない。

【407】情報――すなわち同等に可能な他の出来事や非出来事の一定の範囲からの選択――に関しては、すべてのシステムはそのシステム自身に依存している。このことは、システムがシステム自身にではなく環境に割りふる出来事に対してシステムが付与する、システム自身によって実行されたオペレーションの情報価値についても事実である。情報はコミュニケーションの構成素以外のなにものでもなく、そしてそれゆえ内的なオートポイエティックなオペレーションのひとつの相であるため、その認知的構造はシステム内におけるシステム/環境差異の内的表象にもとづいている。

  • 出来事を通した現実の媒介/情報

の区別。
システムは出来事としての現実を体験する。だが、システムはシステム自身に依存して情報を選択する(したがってそれは選択地平によって条件付けられている)。

  • それゆえ、いくつかのシステムにおいて同時に現われた出来事が、それらのシステムによって情報として用いられることは、可能なことでも必然的なことでもない。

V.


【506】一般的にオートポイエーシスに関しては、自律について、それが存在するともしないとも言われうる。そのようなことは少しもありえない。相対的なオートポイエーシスなどというものもありえない。もしありうるとしたら、それは何とくらべられているのか?段階的といえるものは、それが遂行できるオペレーションの量と性質に従う、システム分化の度合いだけである。

VI.


【602】この理論の諸発見は理論それ自体に適用されなければならないし、じっさい、適用されうる。もし理論が「外的現実」への特権的なアクセスをもつ、例外的な地位を主張するとすれば、その理論はその理論自体にまさに矛盾する。


【603】ポイントは、もはや存在論ではない。世界内に(あるいは世界外に)、世界をそれ自体であるように、正しく(あるいはことによると誤って)記述することが可能であるような位置が存在するということを、もはや仮定しないからである。そのような位置は一貫して、観察者を消し去る。もし彼が正しく、事実であることのみを彼が見ることを観察するならば、そしてそれゆえ彼自身の何ものも加えることはなく、そしてもし彼が誤って観察したなら、彼の観察はその理由のみによって価値の無いものとなる。新しい自然のnatural (あるいは物質の、生物学的な、社会学的な、あるいはとにかく、経験的な)認識論は、その原則において、伝統的な認識論とは異なる。それは、観察者自信の寄与、観察者のシステム構造と不可分に結びついた、知識の状態としての装備、といったものを前提することによってである。すべての認識の回帰的閉鎖というテーゼは、この(すでに広く拡がった)ポスト存在論的認識論からのラディカルな帰結を引き出している。もしそれが支持できないものとして棄却されたとしたら、観察者自身の寄与というものが他のやり方で(そしておそらくよりよく)解釈されうるのかどうか――あるいは結局のところ、世界の観察にとって特権的な(そしてそれゆえ否定的な!)位置がある、ということを思い切って主張するのだろうか――といった問題が生じる。そしてそれは、そういった主張をなす人の位置でなければならないだろう。

「新しい自然のnatural認識論」という謎のタームが出てくるが、たんに超越論的ではない経験的認識論、ということを述べたいのであろう。原文が気になるところである。