浜日出夫、1990、「シュッツの哲学と社会学」徳永恂・鈴木広(編)『現代社会学群像』、恒星社厚生閣

『社会的世界の意味構成』
2章:現象学的に還元された領域で超越論的現象学による分析
3章〜:自然的態度のうちにとどまって「自然的態度の構成的現象学」による分析
 =「現象学的社会学

不協和:自然的態度と構成的現象学は本来両立しないはず

世界内的領域と超越論的領域の……両者が対立するものであるかぎり、自然的態度と構成的現象学は両立しない

1913年『イデーン』第1巻では、フッサールは、現象学的還元によって直接、自然的態度から超越論的現象学へいたる道を考えており、現象学的心理学は、30年に『イデーン』の英訳のために書かれた「あとがき」で、この道程にあとから挿入されている。シュッツが依拠しているのは、この「あとがき」である。したがって、現象学的心理学は、論理的には超越論的現象学の前段階であっても、時間的にみれば、超越論的現象学が成立したのちに、これを前提として成立したものと考えることができる。

シュッツの「自然的態度の構成的現象学」は、いったん現象学的還元を経たのちに、超越論的領域で得られた知見をたずさえて再び世界内的領域に戻ってくることによって成立しているのである。
……知見が後者に「流入」して、これを二重化している

自分が世界を構成する超越論的主観性であることを発見⇒
いわば世界内的主観性に身をやつした超越論的主観性、「世界内的=超越論的主観性」というべき存在。
=銀行員に身をやつした現象学者としてのシュッツ自身の姿を重ね合わせてみることもできる。
主観的であると同時に社会的であるというパラドキシカルな二重の性格
  この世界はフッサールによって「生活世界」と呼ばれる。
  
「自然的態度の構成的現象学」とは、世界内的=超越論的主観性が、自分の生きている主観的でかつ社会的な世界、すなわち生活世界を、その内部から反省的に考察する学[Gorman,1977って?]

生活世界概念の自然主義的な意味転換
しかし、生活世界は本来世界の一部分をなすものではなく、あらゆる経験が属する全体的地平として、われわれの経験の相関者としての国家や経済機構をもそのうちに含むものである。
⇒「自然化」された生活世界概念と、「反省的な」生活世界概念とを区別する必要がある。

「人間主観性のパラドクス」byフッサール:世界内的主観性をも超越論的主観性による構成的所産とみなすことによって、超越論的現象学のうちで解決されるはず
←他我構成という問題(シュッツ)
間主観性は超越論的領域で解決できるような構成の問題ではなく、生活世界の所与である。
実学と本質学の区別を事実上撤廃
経験を超越した外部というものを一切想定しない