浜日出夫、2004、「危機としての生活世界――シュッツの“discrepancy"概念――」『年報 社会科学基礎論研究 第3号』ハーベスト社。
本稿のねらい:
(1)ウェーバーとパーソンズに対してシュッツが行った批判を整理。
(2)この批判の背景にあったシュッツの危機認識を、シュッツによる"discrepancy"という言葉の用例に注目しながら考察。
→様々な亀裂が走り、不一致と食い違いに満ちた、危機としての生活世界像をシュッツから取り出すこと。
1.ウェーバー・パーソンズ・シュッツ
(1)シュッツのウェーバー批判
・ウェーバーの「動機」の定義:「行為者自身や観察者が或る行動の当然の理由と考えるような意味連関」(@『社会学の根本概念』)
←[シュッツの批判]《S:行為者の主観的意味連関》と、《I:観察者=社会学者が構成する理念型》を併置してるじゃないか!
↓
しかし、S-I関係を理念型の構成によって問うことは不可能。
[シュッツは考えた]⇒(科学以前の、生活世界における)主観的意味連関の構成を行為者自身が反省を通して解明する「自然的態度の構成的現象学」ならいける!
・シュッツによるウェーバー批判は、数学的自然科学に対するフッサールの批判と並行。
・「理念の衣」が行為者の主観的意味と取り違えられ、それを隠蔽することを批判。
(2)シュッツのパーソンズ批判
・往復書簡における批判の論点は4つ
①「事実」の定義
・パーソンズの「事実」の定義:「概念図式を用いてなされた現象に関する経験的に検証可能な言明」(@『社会的行為の構造』)
←[シュッツの批判]社会的事実は、社会科学者による構成に先立って、すでに行為者によって一次的に構成されているのであり、社会科学者による概念図式を用いた構成は「二次的な構成」にすぎない!
②主観的観点
・パーソンズの「主観的観点」に関する見解:「[行為]図式の準拠枠は、ある特殊な意味において、主観的である。つまりこの準拠枠が取り扱っているものは、その行為が分析され考察されている行為者の観点からみて、現出しているような現象――事物や事象――である。」(@『社会的行為の構造』)
←[シュッツの批判]「彼は行為者の心のなかの主観的諸事象を、観察者だけに接近できるその事象の解釈図式ととり違え、したがって主観的現象の解釈のための客観図式とこの主観的現象自体とを混同してしまっている!」(@『往復書簡』)
・この見解の違いは、<パーソンズの主意主義的行為理論/シュッツの自然的態度の構成的現象学>の区別に対応する。
③規範的価値
・パーソンズの「規範的価値」という「主観的範疇」の導入(@『社会的行為の構造』)
←[シュッツの批判]この範疇もまた観察者が行為者の主観的意味を再構成するために用いる解釈図式にすぎない!
・「規範的価値いっさいは、目的の動機の体系ないしは理由の動機の体系として解釈することができる」(@『往復書簡』)
④秩序問題
・パーソンズが規範的価値という範疇を導入したのは、「ホッブズ問題」にたいする解決を見いだすためだった=「共通価値による統合」
←[シュッツの批判]「行為者のみが実際の目的を知っている」(@『往復書簡』)。動機は、「各私的」であるという意味において「主観的」である。
↓
ではかかる各私性のもとで、われわれはいかにしてコミュニケーションを可能としているのか?
[シュッツの解答]⇒「視界の相互性の一般定立」(@『著作集』):私と他者は同じ対象について同じ経験をしているということを私が自明視しており、かつ他者も同じように自明視しているはずだと私が想定しているということ(この想定の根拠はない)。
2.シュッツの危機認識
(1)学問の危機
・WやPに対する批判の背景にはフッサールと共通の「学問の危機」という認識が存在。
・「昼は銀行員、夜は現象学者」という二重生活から分裂の危機にあった。
⇒多元的現実論→人格の「対位法的構造」として定式化
(2)"discrepancy"
・もうひとつの危機認識。
・「仮に世界の相互主観的な経験は実質的には同一であるというこの信念が崩壊すれば、その場合にはわれわれが仲間たちとコミュニケーションを確立する可能性そのものが破壊される。」(@「ドン・キホーテと現実の問題」)
⇒「食い違い(discrepancy)」という事態。
3.危機としての生活世界
・シュッツにおける"discrepancy"概念の用法。
①「よそ者」(1944年)
②「帰郷者」(1945年)
・よそ者は、自分がこれまで所属していた集団で自明視していた解釈図式と、自分がこれから加入しようとしている集団で通用している解釈図式とのあいだにそのような「不一致」を見いだし、帰郷者は、故郷を離れていたあいだの経験が自分にとってもっている意味と、それに故郷の人々が与える意味とのあいだでそのような「亀裂」に出会う。
③「平等と社会的世界の意味構造」(1957年)
・ある集団がその成員にとってもっている意味と、部外者にとってもっている意味の食い違いが生み出す差別経験。
・「個人の人格の全体ないし広範な層を」類型と同一視することによって「人格をこなごなに打ち砕く場合」。たとえばニュルンベルグ法によって「それまではまったく関連性がなかった事実である祖父の出自に基づいて、ユダヤ人として扱われるようになったことを知った例」。
→これらはシュッツにおいて生きられた現実であった。
・グールヴィッチに宛てた書簡:「われわれはわれわれの世界のなかに、われわれの世界ではなしで済ませなければならない秩序を創り出すように努力しなければなりません。すべての対立はこのアクセントの移動のうちに隠されています」
・パーソンズはナチズムを「われわれの世界」の危機を集中的に表現するものとしてとらえ、いかにしてこの「世界」における秩序を守ることができるのかという問題と格闘した。
・他方、シュッツにとって、そのような「われわれの世界」は「なしで済ませなければならない」ものであった。
4.「傘がない」
・日本でのシュッツ受容は1970年代。マルクスとパーソンズの退潮と入れ替わり。それは、個別の命題が妥当しなくなったためではなく、理論全体が突如よそよそしく見慣れぬものと感じられるようになったため。
・社会全体のイメージが壊れて、ジグゾーパズルの断片のようにばらばらになってしまったような感覚。
・1972年の井上陽水「傘がない」にはシュッツが直面したのと同型の二重の危機が歌われている。この歌は、しばしば批評されたように、社会から私生活への撤退を歌ったものではなく、「われわれの世界」の秩序から「われわれの世界」への秩序への、社会を見るまなざしの「コペルニクス的転回」を歌っているのである。この転回ののちには、もはや社会の全体を外部から見渡せる超越的な視点など存在しないことは明らかであるように思われた。
・「傘がない」はまた「われわれの世界」におけるコミュニケーションの不可能性を歌った歌であった。それは「君に逢いに行かなくちゃ」と歌っているのであって、君と逢えた喜びを歌っているのではないのである。むしろこれを歌っている「わたし」は君に逢えないことを知っているのである。傘がないことはその象徴にほかならない。竹田青嗣によれば、「ロマン的世界への挫折と、それにもかかわらず立ち昇ってくるロマン的世界への憧憬」こそが「陽水的世界のメルクマール」[竹田、1986=1999:17]なのである。「傘がない」が収められたアルバムのタイトルは『断絶』(="discrepancy")であった。
【結論】シュッツとは、危機の瞬間に、時代と社会を超えて立ち現れてくるイメージなのである。