「生活世界:現象学者たちとの対話のために」

I.生活世界の概念

【1】生活世界は20世紀に生み出された最も実り豊かな造語のひとつであるが、なお不明確な概念である。この言葉は生み出されたコンテクストを離れて頻繁に用いられており、この言葉を用いる者が同時に超越論的現象学の前提を受容していることはむしろ少ない。
(1)
(2)Lippitz。
【2】最小限の使用規則としてはおそらく、生活世界について語るものは、この世界がそれにとって生活世界であるような主観的*パースペクティブを考えている、ということ。
【3】現象学にとっては、それに対して何ものかが現出してくる場を確保するのが主観連関*であり、それは、そこでの現われを記述しようという意図を補償するものである。主観概念にまつわる哲学的重荷を背負えば背負うほど、現象学形而上学あるいは形而上学と同等の意味を持つようになる。……したがってまず問題となるのは、カント以後においてもなお形而上学は可能かという問題である。

II.地盤と地平のあいだ

【4】現象学とともに……多くの世界について、あるいは複数世界の入れ子について語ることを許容しうるような世界概念とはどのようなものであろうか。
【5】フッサールの地平と地盤という二つの異なるメタファーは、互いに矛盾する。一方で世界はひとつの地平、またはあらゆる諸地平の地平とされているが、他方では、生活世界は観察や行為がそのなかを動く地盤として記述されている。
だが地盤であるならばそれは世界ではなく、地平であるならば生活ではない(地平を地盤として用いることはできない)。
(3)『経験と判断』。Landgrebe。
【6】背景的前提、諸前提(自明性)について語っても無駄だ。地盤とは単なる行為相関項なのである。行為はそれに依拠できない。行為自信の自己言及でしかない。
(4)Schutz。
【7】
(5)『イデーン
(6)『声と現象』
【8】ハーバーマスにおいては、生活世界はテーマ化されていない意味領域のつねに必要な前提となっている。ここでも、テーマ化されていないものがテーマ化されないものとして何かある規定可能なもの、あるいは馴れ親しまれたものであり、確かさを持っているという前提は、地平と地盤との差異において破綻する。ハーバーマス曰く、生活世界は「問題のない背景的信念」=合意を形成するための何か汲み尽くしがたい源泉のようなもの。
しかし、あるテーマに関わる場合にはいつでも合意と不一致の分岐点となるような無限の不一致の源泉、共通でない源泉が問題である。
(7)Habermas『コミュニケーション的行為の理論』
(8)AaO
(9)
(10)Waldenfels。
【9】これらすべての点からして、われわれは生活世界の地平性と地盤性の混乱を解消すべく努めねばならない。→主観-客観図式を「脱構築する」⇒あらゆる対象の意味は複数コンテクスト的に与えられ、それゆえある一つだけのコンテクストに投影することはできない。
あらゆる観察は一つのコンテクスト選択を含んでいるのなら、コンテクストの数は原理上無限である。⇒世界が複数コンテクスト的な複雑性において与えられている。
世界はあらゆる意味的現実性において共に与えられており、後退する地平としてのみ与えられてりる。
馴れ親しまれているということや確かさ、合意といった、コンテクスト化する述語を世界に当てはめることはできず、生活世界も世界である限り、それらを当てはめることはできない。
⇒馴れ親しまれていることや信頼性がいったいいかにして構成されるのかということが、まず第一に解明されなければならない。

(11)SS。
(12)Gunter。
(13)
【10】地盤というメタファーはむしろ、馴れ親しまれたものがいつも-すでに-与えられていることを意味し、地平というメタファーは馴れ親しまれていないものがいつも-ともに-与えられていることを意味する。

III.生活世界の構成

【11】出口を見いだすためには、現象の世界をその思考的変様に耐える本質的な相において記述するという方法はやめて、操作的な接近法を求めなければならない。操作は区別によって始められる。あらゆる操作は、それが接続しうる区別をいつも事実としてあらかじめ前提している。⇒この「いつもすでに」という性質は、生活世界の構成という問題を排除。
われわれにとって問題なのは、まさに誤った前提から正しい認識が生じるというパラドックスの解消にある。

(14)『経験と判断』。
(15)
【12】「マークされざる空間」から始まる。区別を設けよという指令を受ける。区別することは同時に、ある区別に基づいてのみ意味をもち、別の区別の枠内では別の意味をもつような一つの指示をも同時に要求する区別および指示は、基本的に同一の操作の二つの契機にすぎない。
(16)『形式の法則』。
【13】区別は基本的に非対称。その優位関係の落差をはぎとり、再び対称的なものとするためには、かなり知的な努力が必要である。だが、この非対称性は、横断crossingの可能性が開かれることによって埋め合わされる。
(17)
【14】純論理的には、繰り返しはつねに同一の指示でしかない。??=?である(凝縮の形式)。しかしこの世界では、その意味を変更せずに二度指示されるもののはない。われわれは繰り返しの意味的多値性に注目せざるをえず、指示が繰り返されることによって馴れ親しまれたという性格(ならびにそれによる動機づけ)が発生すると解釈しなければならない。
生活世界とは、区別の凝縮物なのである。
(18)
(19)
【15】「マークされていない空間」をどう切り分けるとしても、その後の一切の操作のうちには、その区別によって定立された差異が残る。最初の区別は馴れ親しまれたものを凝縮する働きをする。最初の区別は放棄されえない。最初の区別を放棄することは、馴れ親しまれたものから馴れ親しまれているという性格を奪うことを意味するからである。
【16】スペンサー・ブラウンによれば、無化の形式、??= である。先行する操作をその操作による区別の他の側面にも及ぼすために新しい操作を行うことは、先行する操作を打ち消すことになる。ここでもわれわれは、……区別されたもの間で起こる横断は指示を消し去るのではなく、そこに立ち戻る用意があるのだということ承認して、[無化を]回避したい。なぜなら、馴れ親しまれたものの濃縮に応じて、人は慣れ親しまれていないとも関わることができ、その区別に立ち戻ることができるからだ。そうした横断が区別を再活性化させる。
(20)Valela。
(21)エリオット。
【17】今やわれわれは、あらゆる馴れ親しまれた意味凝縮物の指示連関を生活世界と呼ぶことができる。世界が生活世界として現われるのは、コンテクストに応じた馴れ親しまれたものと馴れ親しまれていないものとの区別によって世界が呈示される場合であるが、そのことは、馴れ親しまれたものを複数のコンテクストにおいて再解釈することを決して排除しないのである。

IV.神話と象徴

【18】
【19】生活世界は必然的に自らを再建する。問題なのは、馴れ親しまれていないものをも含む地平においてのみ馴れ親しまれたものが経験されうる、その限りにおいて、世界は生活世界なのだということ。
【20】区別は、その区別によって区別されたものに再参入される。それによって、馴れ親しまれたものとそうでないものとの区別それ自体が、馴れ親しまれた区別となる。この「再参入」が適用される最も明瞭な事例は、おそらく神話である。神話が主題とするのは、馴れ親しまれた世界と馴れ親しまれていない世界との差異にほかならない。そして、区別の再参入は、繰り返しから生じ、繰り返しに依拠する意味論の形式においてなされる。場所と時間、ここと今、人間生活の諸々の制約と馴れ親しまれた状況は、全く異なるものに対して境界づけられる。
(22)
【21】神話のこうした機能は、この世界に起こる現実の現象という様態においてのみである。
【22】象徴の発明は、まさにそうした機能様体の置き換え過程を開始させる。進化論的に解釈すれば、そこには意味論の形式の発展がある。記号概念と混同されてはならない。象徴とは、馴れ親しまれたもののうちで馴れ親しまれたものと馴れ親しまれていないものとの差異を統合するものである。それはこの特別の機能のために発展してきた形式であり、形式の自己言及の中にある区別の自己言及の形式を隠蔽する。
【23】象徴はまた、実在性を持ち、それゆえ便宜的な記号のような任意性を持つものではない。
【24】同様の機能を持つコンテクストとしては(前象徴的な)儀式とタブーがある。これらもまた、馴れ親しまれたものの内部で、馴れ親しまれていないものとの境界を画するものである。しかし……進化論的な潜在力を持っている。先行する再生産の誤りを、それが役に立つとわかれば、突然変異のように安定化させることもできる。[儀式やタブーが]象徴的な出来事に変形されることは、継続的進化の成果である。

【25】