鷲田清一、1993、「地平と地盤のあいだ──〈生活世界〉という概念――」『岩波講座《現代思想》現象学運動』(岩波書店)。

〈生活世界〉は、(ときには対象概念として、ときには方法的な操作概念として)たしかに発見的に機能したのである。

1 〈生活世界〉の主題化

少なくとも〈生活世界〉について語りうるというのなら、まずそれが論述の一つの対象、ないしは主題として特定できるのでなければならないし、さらにまた、生活世界のなかで語ることと生活世界について語ることとの差異についても、ディスクールの水準の差として明示しうるのでなければならないだろう。しかし、それがそもそも可能なのかどうか、その点がまだ少しも明瞭ではないのである。

絶対的な始まり(Anfang)の不可能性という事態を露呈させるまさに「問題的」なプロブレマーティク
知の基礎づけという理念の可能性
生活世界について――純粋に、俯瞰的に、主題的に――語りうる言説空間の不可能性をも意味する

〈生活世界〉が、諸々の対象の一つ、あるいは諸対象の全体としてではなくて、地平として捉えることを要求されているということである。あるいは、経験の根拠(Grund, fundamentum)ではなく、経験の地盤(Boden)が問題なのだ
⇒通常の世界内部の存在者について語るのとは一貫して別種の語り方が、別種のパースペクティヴが要求される

生の危機=生の自己理解としての学問の危機

背後に数学的に規定可能なある不変の構造
客観的な規定
「真に存在するもの」と「方法にすぎないもの」とを取り違えたからである。言いかえると、科学的な〈知〉の構築がそこから発生し、またそこへと還流してくる恒常的な地盤ないしは地平としての生活世界が隠蔽され、忘却されているからである。
科学的世界も一定の主題的な関心に則って構成された「特殊世界」(Sonderwelt)の一つであり、非主題的な生活世界を地盤として主題的に構成される目的形成体である。
言いかえると、科学的な世界とは、科学的な思考に先だってわれわれがいつもすでに妥当するものとして経験している生活世界に、「理念化」(Idealisierung)という操作を加えることによって構成された論理的形成体(生活世界に被せられた「理念の衣」)にほかならない。)

おのれの源泉と地盤を忘却している自然的態度の素朴さだけでなく、その源泉と地盤を体系的に隠蔽してゆく近代科学のその客観主義の「素朴さ」をも衝く

現象学による客観主義的な科学の批判は、知がそれ自身の基礎を忘却しているだけでなく、それを組織的に隠蔽しようとしている、そういう〈知〉の体制への批判である。

2 〈生活世界〉論というプロジェクト

生活世界は、還元された「自然的態度の世界」とどの点で異なるのか。

(意識の主題的な対象)は、つねに一定の〈地平〉(Horizont)のなかで現出してくるものである。
地平については、……いつもすでに構成的に働きだしているもの

認識や経験のさまざまの潜在的な諸契機

世界……には意識の働きのさまざまな痕跡や沈殿物がすでに含みこまれている

発生的現象学:世界がいわば〈受動的〉に自己を送り込んでくる働き、感覚的に与えられたもののあいだでいわば自動的に発生する〈連合〉関係、経験を表現・伝達するのではなく、むしろ経験を凝集させ、象るものとしての言語の機能、キネステーゼ(運動感覚)の系ないしは〈身体性〉(Leiblichkeit)としての主観性の存在様態、他者との前人称的な共同関係、すなわち〈間主観性〉(Intersubjektivitaet)として機能する超越論的主観性など、〈地平〉としていつも隠れて機能している意識の辺縁や深層がわれわれの経験のさまざまな位相で析出されたのであった。そして、そのつどの対象的=主題的な意識の背景でいつもすでに生き生きと働きだしている地平の全体を、フッサールは〈生活世界〉という概念でもって主題化したのであった。

つねに「遂行様態にある」(「自己を忘却している」)

あらゆる事物は、それ自体は主題的に意識されることののない〈生活世界〉という普遍的地平のなかで与えられるのであったが、フッサールは、このように〈地平〉として世界があらかじめ自己を送り込んでくる位相への問いを通じて、そのように世界をあらかじめ与える主観性の働きの分析へとさらに遡行してゆく。

3 パラドクスの交錯態

パラドクスのるつぼ



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