野家啓一「生活世界」『現象学事典』(弘文堂)

  • 生活世界[(独)Lebenswelt (英)life-world]

1 「生活世界」の起源

前面に押し立てて現象学的考察の展開を図るのは1930年代、『危機』と『経験と判断』

1910年代の草稿:「イデーン2」の第3部「精神的世界の構成」は1913年から17年。注で、「その際われわれは常に、また自然研究者も、彼が自然を探求しているときですら、つねに人格として生きつつ人格的世界の中に、すなわち生活世界の中に居ることを見いだすのである」。
1920年代半ば:1924年フライブルクで行われたカント記念講演「カントと超越論哲学の理念」で、「現実的な生活世界、すなわち体験所与性というあり方における世界が考慮に入るや否や、世界は無限の広がりを獲得する」
1925年の草稿の標題は「実証科学の批判を通じて超越論的哲学へ至る道、『イデーン』のデカルト的な道と先所与的な生活世界の問題」

確立されるのは1935年前後と見てよい

アヴェナリウスの「自然的世界概念」
イデーン2で、「自然主義的態度」と「自然的態度」を明確に区別し、前者によって人為的に構成される「物理学的自然」に対し、後者にもとづく根源的な日常世界の優位性を強調する。
すなわち「このような自然主義的に考察された世界はこの世界(die Welt)ではない。むしろ、日常世界としての世界が前もって与えられている」

2 「生活世界」の射程

『危機』:「学問の〈危機〉は学問が生に対する意義を喪失したところにある」
「学問がなぜこの指導性を失ったのか、なぜ事情が本質的に変わって、学問の理念が実証主義的に限局されるようになったのか」
ガリレオにはじまる物理学的客観主義による「生活世界」の隠蔽と忘却

生活世界とは「あらゆる個別的経験の普遍的基盤として……いっさいの論理学的能作に先立ってあらかじめ直接与えられている世界」@EU
あるいは「われわれの全生活が実際にそこで営まれているところの、現実に直観され、現実に経験され、また経験されうるこの世界」@危機

近代科学の方法的操作を通じて二重に〈理念化〉されることにより、次第に隠蔽され忘却されてゆく

第一の理念化は、第一性質からのみなる「極限形式」としての世界を作り上げる
第二の理念化は、第二性質にまで拡張して及ぼし、いっさいの事象の間接的数学化を企てる過程のことである。
⇒「自然の数学化」が完成
「〈数学と数学的自然科学〉という理念の衣は、科学者と教養人にとっては〈客観的に現実的で真の〉自然として、生活世界の代理をし、それを覆い隠すようなすべてのものを包含することになる。この理念の衣は、一つの方法にすぎないものを真の存在だとわれわれに思い込ませる」@危機

=生の自己理解としての学問の危機の原因

科学的客観世界は、絶えず地平ないしは意味基底として機能している非主題的な生活世界を地盤にして、一定の主題的関心に即して構成された「特殊世界」(Sonderwelt)なのであり、そのことが忘れ去られるとき、自己肥大化した素朴な科学主義が頭をもたげるのである。

「つねに問われるまでもない自明性のうちにあらかじめ与えられている感覚的経験の世界」(@危機)である生活世界がいっさいの科学的知識の意味形成と存在妥当の根源的な地盤であるとすれば、生活世界の現象学は「学すなわちエピステーメーに対する基礎としての尊厳を一挙に要求するところのドクサについての学という奇妙な学」(@危機)というパラドキシカルな性格を身に帯びざるをえない。
→学問の「究極的基礎づけ」というプログラムは破綻【アポリア1】

「生活世界もまた単純に目の前に与えられるものではなく、それが構成されてくるありさまを問題としうる形成体」(@EU
→生活世界をあらかじめ与える超越論的主観性の能作へと分析を遡らせる

まず客観的学問の領域から具体的な生活世界への還帰を遂行する「新しい道」を提案し、さらにその生活世界を「手引き」として超越論的主観性へと遡行する第二段階の〈還元〉を要求する。

3 「生活世界」の二義性

基礎づけるものでありつつ基礎づけられるものでもある、という生活世界の二重性【アポリア2】

U. クレスゲス「地盤機能」と「手引き機能」との二義性

  • 生活世界は、

(1)科学的世界像にとっての意味基底として、それに明証性の普遍的〈地盤〉を与える機能を果たすとともに、(=現象学的還元によって開示される根源的な世界地平;〈最後に与えられるもの〉;普遍的基底)
(2)自然的態度によって出会われる反省以前の世界として、超越論的分析に〈手引き〉を与える機能をも果たしているのである。(=還元が施されるべき存在者の全体としての〈自然的世界〉;〈最初に与えられるもの〉;具体的=歴史的なもの)*1

フッサール:「具体的な生活世界は〈科学的に真なる〉世界に対してはそれを基底づけている地盤であるが、それと同時に、生活世界独自の普遍的な具体相においてはこの科学的世界をも包括している」(@『危機』)

しかし、ヴァルデンフェルスはこれは両立しえないと指摘。「生活世界は、具体的=歴史的なものである限りは普遍的基底ではなく、逆に普遍的基底である限りは具体的=歴史的なものではない」

クレスゲス、世界概念の二義性の反映として解釈。
(1)超越論的観点からする〈地平〉としての世界
(2)存在論的観点からする〈存在者の統一的全体〉としての世界

しかしこの両性概念はむしろ、「解釈学的循環」を正しく示唆している。

⇒生活世界の二義性は、「基礎づけ主義」のプログラムが実現不可能なものであることを側面から照射している。

4 生活世界論の影響と展開

メルロ=ポンティ:「フッサールはその後期哲学において、すべての反省は生活世界の記述に立ち帰ることから始めねばならないということを認めている。しかし彼はそれに付け加えて、生活世界の諸構造はそれはそれでまた第二の〈還元〉によって普遍的構成の超越論的流れの中に置き戻されねばならず、そこでは世界のすべての暗がり光が当てられることになる、と述べている。けれども、可能なのは次の二つのうちの一つだということは明らかである。すなわち構成によって世界が透明になるか、それとも構成が生活世界のうちの何物かを保持し続けるか。前者の場合には、なぜ反省があるのか理解できなくなるし、後者の場合には、構成は生活世界から決してその不透明さを剥ぎ取ったりはしないことになる」
→第二の還元を拒否

シュッツも第二の還元を拒否。

*1:ここのぼくの整理が正しいか、心許ないです。