「決着」は付いたのか。(2)
さて本題。
eculusさんの、コメント欄での質問を↓のように再定式化します。
- ルーマン『社会システム理論』の邦訳・第1章の冒頭は「本書でのこれからの考察は、諸システムが実在しているということから出発している。したがってそれは、システムの実在に関するなんらかの認識論的懐疑から始めるのではない」となっている。これをみるとルーマンは「実在論者」であるようにもみえなくもない。だが酒井さんは「実在している」と訳すのは誤訳であると主張している。この件に関してなんらかのコンセンサスはあるのか?
まず、「ルーマンは実在論者である」――これも再定式化して「ルーマンは実在論的な議論/主張を行なっている」としますが――という見解が誤りである、という主張は、コンセンサスが得られていると思います。
どこで?と言われそうですが、ルーマニ屋のみなさんの間ではコンセンサスが得られています。「ルーマンは実在論者だからダメだ」とか「ルーマンのよいところは実在論的なところである」などとおっしゃる方々は、ルーマンが書いた本を読んではいるのでしょうが、ルーマニ屋ではありません。
上のエントリで、「水準」を3つに分けました。
この問題は、(1)のレベルで議論されるものではないですね。ルーマン・ジャーゴンが使われているわけではない("there are" "es gibt"はテクニカル・タームではない)。ただし、「ルーマンは『実在』という表現を独特の用法で用いているのではないか」という議論はあってもよさそうなものだとは思います。つまりルーマンは実在論者などではないが、「システムは実在する」と訳すのは誤訳とまではいえない、という主張は可能なのではないか、ということです。
つぎに(2)ですが、重要なのは、
ということと、
- 「実在論」とは「世界は、その真の姿がいかなるものかをわれわれが知らないとしても、われわれから独立に存在し、ある決まったあり方をしている、とみなす立場の総称」(藤田晋吾:1989→『コンサイス20世紀思想事典』*1)というかなり広範に認められている定義を持ったテクニカル・タームである
ということです。
ええと、眠くなってきたのでアンチョコ本からの引用でお茶を濁しますが(すまそ)、フッサールは次のように評価されている哲学者です:
矢継ぎ早に、おそらくずっと適切に、代表象主義に対するフッサールの批判は実在論と観念論の両方に対する批判とみなすことができると言えるだろう。実在論と観念論の対立を内在的表象/外在的実在という二重語を用いることによって定義するならば、観念論は、唯一存在する存在者は心の内部の表象であると主張し、その一方で、実在論は、心的表象は心の外部の心から独立した対象に対応すると主張するが、フッサールが両者を拒絶するに違いないということは明らかである。別の言い方をすれば、そのように比較的簡単に実在論と観念論を定義することができるが、それは、ことフッサールの現象学の性格づけということに関しては、両方ともふさわしくない。もう一つのそうした定義を与えると、観念論が主観性は世界なしに存続することができると主張する立場として定義され、実在論が世界は主観性なしに存続することができると主張する立場として定義されるならば、二つの間の厳密な相関関係を力説する立場は(フッサールの還元への存在論的道と比較すれば)実在論と観念論の両者を越えているということは明らかである。実際、実在論のそうした定義を考えると、フッサールの立場をある種の観念論として、あるいはもっと精確には、当該の実在論と両立不可能ではない限りで、ある種の反実在論として記述することさえ可能である。学ぶべき教訓は、疑いなく実在論と観念論という考えそのものがほとんど役に立たないほどに弾性に富んでいるということである。ハンス・ゲオルグ・ガーダマーもフィンクも、実在論と観念論の間の古い対立を克服したことでフッサールを賞賛したということは、偶然の一致ではなく、そして、フッサールが主観的観念論者でも形而上学的実在論者でもなかったということは確かに真である。
ルーマンは現象学者でも現象学的社会学者でもありませんが――主観から(志向性から)出発するのではなく「システム/環境‐区別」から出発する、という立場を取る点において、現象学者ではない――上記引用にある「教訓」を引き継ぐことで現象学的なシステム理論を記述している、ということは言えるかと思います。
で、こういった「フッサールは踏まえるが、出発の位置は変えよう」というルーマンの理論遍歴を踏まえるならば、「ルーマンは実在論者である」と考えるのはありそうもないものになります。
ちなみに「本書でのこれからの考察は、諸システムが実在しているということから出発している。したがってそれは、システムの実在に関するなんらかの認識論的懐疑から始めるのではない」と訳されている第1章冒頭の原文と英訳はこうなっています。
原文:
Die folgenden Ueberlegungen gehen davon aus, dass es Systeme gibt. Sie beginnen also nicht mit einem erkenntnistheoretischen Zweifel.英訳:
The following considerations assume that there are systems. Thus they do not begin with epistemological doubt.
邦訳にある「システムの実在に関する」という語句はないですね。
つまり「認識論的懐疑からは始めない」という一文を敷衍して「システムが実在するかとかしないかとか、そんなことはとりあえず問わないでおく」と佐藤勉さんは敷衍して・補って訳しているのですが、そういう「補い」が必要になるのは一文目で「実在しているということから」などと書いてしまっているからですよね。だったらそんな訳語を採用しなければいいのに、と思ってしまいますが……
さて(3)の水準ですが、ここからは私見です。
「諸システムがあるということから出発する」という言明の含意について、目下のところ(泰斗祭りやフォーラムでは)「認識論的懐疑からは始めない」つまりエポケーする、という含意が注目されていますが――そこが重要なのは当然なのですが――ぼくがここを初めて読んだときには、その次の文が重要な含意として目に飛び込んできました。
それはまた、システム理論の「たんなる分析的な重要性」だけを考える後退した立場にくみするものでもない。ましてやシステム理論を現実分析の方法にすぎないとするきわめて狭い解釈は避けなければならない。
この文は「日本語版への序文」の次の記述と呼応しています:
そうしてみると、古典的なシステム理論では、(具体的システムから区別される)「分析的」システムが取り上げられており、何がシステムであると観察者によってみなされるかは、観察者しだいであることがみてとれる。そのことは一部は正しいが、一部は誤っている。(…)それぞれの観察者にとって、なんらかのシステムがシステムであるのは、そのシステムがそのシステム自体のオペレーションをとおしてそうしたシステムへとみずからを作り上げているばあいにかぎられるのである。私の出発点はシステムが実在しているということであるが、しばしば批判されているこうした表現をするさいに、私が念頭においているのは、まさしく以上のことなのである。というのもそうでなければ、システムについて語ることはなんの意味もないであろうし、またまったく存在しないことがらについて取り上げている部厚い著作を読むことを読者に無理じいすることはなんの意義も認められないだろう。[ii頁]
これはモデルを仮説としてもちいる分析*(社会科学ではモデル・スペキュレーションといいますが)に対して批判的な立場をとりますよ、という表明です。
もし社会がシステムではなく、たんにシステムではないものをシステム「として」見てみましょう(=「システム」というモデルを仮説として「社会」にあてはめて分析しよう)、ということであれば、社会システム理論を学ぶということは、社会を学んでいるのではなく、延々とモデル(あるいは理念)と戯れているだけ(訓詁学!)、ということになってしまう。
社会理論とは、社会を記述したものである、あるいは社会理論とは社会のことである、と。(一見奇妙に聞こえる言い方かもしれませんが、「観察*2から独立に社会は存在しない」とか「社会は自己を自分自身の認識の対象として観察する」とか「社会はコミュニケーション(というオペレーション)の総体のことであり、社会の記述=観察(というオペレーション)も社会の構成素である」といったルーマン・テーゼから当然導かれるはず、です、と思います。)
*ところで、社会調査やモデル・スペキュレーションにおいては、「仮説」や「モデル」が誤って「理論」と同一視されることが多い。
たとえば社会調査の教科書では:
実証主義に基づいた調査による社会事象の認識プロセスは,次頁図表1-2のようにモデル化することができる。まず,ある社会事象が調査による認識対象と決定されたら,その事象が生じている社会集団の中から実際に調査を実施する標本,あるいは事例を選び出す。ついで,選び出された調査対象に対し実査を行い,その結果を集計あるいは記述する。そのようにして整理された調査結果に対しては,統計的な分析あるいは意味内容の解釈が施される。ただし,その分析,解釈の結果はあくまでも標本や事例に関するものなので,認識対象となった社会集団全体(母集団という)にそれがあてはまるか否かの検討(検定)を忘れてはならない。最後の分析,解釈の結果から何らかの法則性が見出され,それが一般化可能で,他の理論あるいはより上位の理論と整合的であると認められれば理論となる。社会調査とはこれらすべてのプロセスを通じての包括的な概念である。現実の観察に始まって法則の発見とその理論化に終わる一連の認識プロセスは,帰納的認識あるいは観察帰納法とよばれる。
一方,社会事象の認識は,理論とかかわることによって,より一般性の高い,普遍的で永続的なプロセスとなる。それは演繹的認識あるいは仮説演繹法とよばれる。仮説演繹法では,社会事象そのものではなく,それにかかわる既存の理論からプロセスが始まる。これは,まず過去の類似の経験をあてはあて事物を理解しようとするわれわれの日常的な認識方法とも合致している。ついで,認識対象となる社会事象に対し,もし既存の理論のとおりであればこうであるはずだ,という仮説(作業仮説)が立てられる。それから検定までのプロセスは内容的には観察帰納法と同様であるが,帰納法では調査が法則性の発見の手段と位置付けられるのに対し,仮説演繹法では調査を仮説の当否を検証する手段と考える点で大きく異なっている。演繹的なプロセスの最も顕著な特徴は,仮説を媒介として,理論と調査,そして再び調査と理論とが結合され,一つの環をなしているということである。これによって理論と調査は,一過性でなく永続性のある認識のサイクルの中に位置付けられることになる。現在,学術的な社会調査は,概ねこうした仮説演繹法に基づいて計画され実施されている。
『社会調査の基礎 (放送大学教材)』ここでは「社会事象」と「仮説・法則・理論」が区別され、結合される(区別されていないものは結合できない)。そして「社会調査」は(この区別された二つの側の片方である)「社会事象」に位置づけられ、「理論と調査」という区別=結合が完成する、とされる。
また、モデル・スペキュレーションの教科書では:
さて,数学的表現を前提に考えると,多種多様で複雑な社会現象のモデルをなんの知識もなく自己流に構築していくことはほとんど無理である.しかし幸いにして,数理社会学のこれまでの研究の積み重ねで,いろいろな社会現象に適用できるいわば汎用性のある「標準モデル」がいくつも構築されてきた.さらに,社会現象を一般的に説明できるまでに体系的に整備されたモデル(公理系),すなわち「理論(theory)」も数多くある.せっかくこうしたものがあるのだから,それを活用しない手はないだろう.[8頁]
『社会を“モデル”でみる―数理社会学への招待』と、社会現象を「説明」するものが「モデル」であり、一般的に説明できるまでに体系的に整備された「モデル」が「理論」であるとされている。
ここでは「説明」という語の含意が反省にさらされていないために、このまま文字通り読むと、優れたモデルの統合体が「理論」である、とでも言っているかのように読めてしまう。
(ただ。「モデル」による「説明」をファースト・オーダーとして、そいつらがやってることをセカンド・オーダーで記述したものが「理論」である、といってもそれほど不都合はないように思えなくもなかったりもする)
ぼくの考えでは、〈理論/経験〉区別は古いし使えない。理論も経験的なものであり、経験も理論的なものである。この考えに符合した(するように思えた)理論家がルーマンだったのでこの道に迷い込んだのですが(笑)。
非常に素朴に、われわれは、「社会」は「心」の「中」に浮かぶ像、「経験」はするけれども「実体」のないもの、と考えがちです。先日、飲み会の席で、社会学の先生に「社会なんて心の中にしかないものですよねえ。だったら心理学だけあればいいんじゃないですか?」と言ってのける心理学専攻の学生のハナシが――笑い話ですが――出ました。
しかしそれは「中」に「ある」もの、と「観て」(帰属して)いるにすぎない。
ルーマンは「理論をもって経験の街へ出よう」とは言わない。「経験し、理論を用いて分析しよう」とも言わない。理論こそが経験であり、経験こそが理論である、としか述べません。というかむしろ、経験されない理論など想像もつかないし、理論でない経験というものも想像しにくい、というべきでしょうか。いや、私見ですのでお気になさらずに。
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とりとめもなくなってきたので寝ます。
またなにか書くことがあれば、書きます。
*上記エントリ、2005/8/6/AM11:00修正