「決着」は付いたのか。
#eculus 『あの、完全に「教えてちゃん」になってしまいますが、質問させてください。
以前ちらっと読んだ『理論社会学の現在』で馬場靖雄先生が「ルーマンはドグマティスト(システムは実在するというところから理論を展開する)だ」と述べておられたのですが、先日酒井泰斗さんが「ルーマンはシステムの実在について判断停止してから理論の展開を始めている、ルーマンがシステムの実在を理論の端緒としているというのは単なる(東北大チームの)誤訳だ」と出不ろぐで述べておられました。
結構重大な違いだと思うのですが、この点については既に決着が付いているのですか?
(確かにミーハーな興味ですが…。他のところにポストしろよと云われても…困っちゃいます…)』
# contractio 『フォーラムに投稿すれば?』
# hidex7777 『それがいいとおもいまふ>フォーラムに投稿
「決着」っていうのは……おっしゃりたいニュアンスはなんとなくわかりますが、どういう水準での「決着」(たぶん、コンセンサスがあるのかどうか、ということを質問なさっているのだと思いますが)なのかによって回答もかわってくるだろうと思います。
「水準」のハナシについては…いま出先なので家に帰ったら何か書きます。』
ということなので、まず「水準」のハナシ(一般的なハナシで、ルーマン実在論決着問題はエントリを改めます)。
と、その前に忘れないうちに書いておくと、馬場さんは
「以下の考察は、システムが存在することから出発する」と、「ドグマティック」に書き出しているのである。
『理論社会学の現在 (シリーズ社会学の現在)』と書いていて、「実在する」と書いてないですね。
- ■誤訳か否かを判別してコンセンサスにいたる一般的な諸水準のハナシ■
非常に素朴ですが、3レベルにわけましょう。狭い深いレベル→広い浅いレベル、の順に述べます。
1)ディシプリン内での「決着」/コンセンサス
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- ★ポイント:テクニカル・タームの誤訳なの?
この場合はルーマン業界、ルーマニ屋の間で、「これはこう訳したら誤訳ですよね」という了解が行き渡っている、という事態が「決着」ということになりますね。
この水準でのコンセンサスは、いわゆる「定訳」とか「定解釈」として、様々なディシプリンにおいて「比較的」得られやすいものですね。「定訳」を知っているかどうか、というのが修士課程の入試で聞かれたりする。
ルーマンの場合、Uebertragungを「伝達」と訳すのはまずいわけです(ドイツ語の辞書にはそう書いてあっても、ですよ)。Information/Mitteilungの差異を「情報/伝達」という区別として訳すコンセンサスがあって、それにのっとらないとルーマンの諸著作の間で一貫性が成り立たなくなる=何をいっているのかわからなくなるからですね。ここから、Mitteilungという単語には「伝達」という訳語をあてる、という定訳コンセンサスは「決着」している、といえます。
一方、Uebertragungはどう訳せばよいか、ということに関しては、「移送」「移転」、などの諸訳があり、統一されていません。これは、統一しなくても、それほど読みに困難を生じさせないからです。
ここでのポイントは、ディシプリンの体系としての一貫性が減じられるほどのディセンサスはまずい、ということでしょう。
もちろん「伝統的にこう訳されているのにいきなり勝手な訳をするのは奇妙に見える」というゼマンティク沈殿の法則もあります。
2)ディシプリン間の「決着」/コンセンサス
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- ★ポイント:参照先との参照関係の一貫性はあるの?
今日、社会心理学の本を読んでいたら、社会学・人類学では「互酬性」と訳されるreciprocityが「互恵性(返報性)」と訳されていて「へぇ〜」と思いました。どちらも「交換理論」という同じ名前でよばれているものの体系に登場する概念なのに、異なることも当然あるわけですね。
これが「へぇ〜」で済むのは、訳語が違っていたからといってなんらかの一貫性が損なわれることがないからです。たんに、reciprocityがわれわれ社会学者にとっては「互酬性」以外のなにものでもないのに――そういう歴史に基づくゼンマンティク沈殿があるのに――他のディシプリンでは別の訳語が用いられている、そのことに異文化体験とでもいうべき「驚き」があるというだけです。
一方、「へぇ〜」で済まない事態があります。
- ひとつには他のディシプリンを参照している場合。
- もうひとつはあまりにも含蓄のある概念の場合(含蓄がある、といっても、趣深い、という意味ではなく、伝統的なゼマンティク沈殿があるという意味)。
先取りして言うと、酒井さんの「『システムは実在する』は誤訳だ」という主張は、ひとつにはこの水準での問題が前提となっている主張です。
「実在 real」には含蓄があります。この単語を使っただけで、数百年もの議論の文脈を一気に召喚してしまいます(そういうこともあります、程度かな)。それに自覚的であれば使ってもかまわない単語ですが、そうでない場合、相当の誤解を招くリスクを負うことになります。
時間がないので後でこの件に触れます。
3) 文脈主義的「決着」/コンセンサス
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- ★ポイント:「読解」として妥当なの?
みっつめは、たとえばルーマンの議論や哲学史や社会学史を知らないドイツ文学者が『社会システム』という書物を読んだとき、主張している内容はいまいち明晰にはわからないが、書物全体で見たときに、文章読解のレベルでは、「ここはこう訳したら変じゃないか」ということはわかる、といった例です。
酒井さんの主張はもうひとつにはこの水準での問題が前提となっている主張です。
酒井さんは「第12章 認識論への諸帰結」が最後に置かれていることを挙げていますが、ここでは第1章冒頭を見てみます。
原文:
Die folgenden Ueberlegungen gehen davon aus, dass es Systeme gibt.英訳:
The following considerations assume that there are systems.
まあ、同じですが(笑)、"there are ..."とか"es gibt..."とかの文を訳せ、といわれたら、「…はある」とか「…は存在する」と訳しますよね。ですから、佐藤勉氏はかなり自覚的に「実在する」という訳を選択しているわけです。だとしたら、「ここんとこ、こう訳したのはなんで?」と聞かれて当然ですね(このとき、問題の水準は(2)に差し戻される)。
文脈主義的、とここでいっている水準は、テクストを全体としてみたときに、ある含蓄のそなわった単語を自覚的に用いるということは、ある「読解」をしていることを指し示していることになり、はたしてその読解は一貫したものとして通用するのか、という問題を惹起します。
ここでもまた「一貫性」が問題となります。
時間切れです。バイト行って余力があれば(眠くなければ)続きを書きます。
*上記エントリ、2005/8/6/AM9:00修正