ルーマンの信頼

以下、ぼくが先月某ゼミで発表した論文草稿の一部をそのまま掲載します。
で、読んでいただければわかるように、ルーマンのconfidence概念の理解が、ぼくと酒井さんではだいぶ異なっています>id:contractio:20040213#p1

ルーマンフォーラムでの「確信という訳語はまずい」という議論はもちろん知っていたのですが、「FCT」論文を訳していて、どうもその議論自体がルーマンの意図とは違っているのではないかと感じたので、シカッティングを決め込みました。

うー、とりあえずこんな感じです。



2. 信頼

信頼とは何か?ルーマンは「人間は,世界の法外な複雑性(未規定性)に,無媒介で直面することはできない」(Luhmann 1973=1990: 1-2)と述べる.この未規定性という問題状況が,ここで準拠されているものだ.「なんの信頼も抱きえないならば,人は朝に寝床を離れることさえできまい」(Luhmann 1973=1990: 1)と述べているように,その準拠先(問題意識)はギデンズのそれとそれほど違っていないように見えるかもしれない.しかし信頼論の展開のしかた,問題の記述のスタイルは確かに大きく異なっている.この違いをもたらしているものはなにか?以下で検討したい.

まず,ルーマンの信頼概念を整理しておこう.’73年の『信頼』では,信頼の様式は三層構造として概念化される.[1]意味と世界を構成する〈馴れ親しみ〉Vertrautheitという様式,[2]人格Personlichkeitとしての他者が,自由な行為能力を発揮するであろうという一般化された期待であるところの〈人格信頼〉Personliches Vertrauen,[3]他者との世界観の違いという亀裂に抗して,あるシステムが作動していることに信頼を寄せる〈システム信頼〉Systemvertrauen.それぞれを詳しく見よう.

世界と意味はまずもって「存在者への馴れ親しみ・存在者の自明性」*1 として知られる.詳細は後の節で述べるが,この馴れ親しみこそが,ルーマンが展開する信頼論の根本的な基礎付けになるのであり,きわめて重要な概念である.議論を先取りしておけば,ルーマンは’86年の「生活世界」論文において,馴れ親しまれたものと馴れ親しまれていないものの区別によって呈示された世界を〈生活世界〉と定義している.したがってギデンズが準拠している問題は,ルーマンにおいては馴れ親しみ=生活世界のレベルにおいて言及されるはずのものであるだろう.この馴れ親しみが「根本的な基礎付け」であると述べたのは,これが,世界の複雑性に対処するひとつの戦略であるからである.

もちろんそれでも世界の可能性の複雑性は,現れはするのだが,しかし,馴れ親しみのあるものVertrautenと,馴れ親しみがなくUnvertrauten疎遠でFremden無気味なものUnheimlichenとの裂け目Schnittとして現れるにすぎない.そしてその場合には,馴れ親しみがなく疎遠で無気味なものが,単に闘争の対象か神秘化の対象とされるだけなのである.(Luhmann 1973=1990: 31)

馴れ親しみを前提として,つまり馴れ親しまれた世界において,信頼が可能になる.人格信頼は,「他者が,その自由すなわち行為可能性の無気味なunheimliche能力を,人格であるという意味で発揮するであろう」(Luhmann 1973=1990: 70)という期待である.ここで「自由」「人格」という概念が持ち出されていることに注意して欲しいが,つまりこの期待は人格帰属が可能であることを前提している.制度的に自由でない行為は人格帰属を行うことができず,したがって人格信頼も生じえない.システム信頼は人格信頼の発生条件と相関している.無気味な=自由な他者と共にあることは,世界観の亀裂に堪えることであり,したがって社会的次元における複雑性への対処戦略としてシステム信頼が要請される .*2「人格的な信頼は,他者がはっきりとした資格を持つようなタイプのコミュニケーションに機能的に限定されるようになる」(Luhmann 1973=1990: 90).

馴れ親しみと信頼の差異は,時間次元における戦略の違いに見られる.前者において過去が優位を占めるのに対し(「過去は,常に縮減ずみの複雑性なのである」),後者では過去からの帰結ではない未来を志向したリスク・テイク,「情報の過剰利用」が行われる.(Luhmann 1973=1990: 32-33)

この15年後の信頼論,すなわち’88年「FCT」論文において,信頼の様式は三層構造から多少概念構成に変化を見せる.信頼を可能にする基礎的条件は同様に〈馴れ親しみ〉familiarityである.しかしルーマンのリスク論の文脈における〈リスク/危険〉という区別に基づき,〈信頼〉trustと〈確信〉confidenceの差異が主導的になる.〈信頼〉は認識においてはリスク状況と,帰属においては内部帰属と結びつく(「信頼は,リスクの特定の問題への解決である」「あなたはリスク・テイクを避けることができる.しかしそれは,関連した利益を放棄しようとする場合のみである」).〈確信〉は認識においては危険と,帰属においては外部帰属と結びつく(「普通のケースは,確信のそれである.あなたは,あなたの期待が裏切られないであろうことを確信している.政治家が戦争を避けようとするであろうことを.車が壊れたり,日曜の午後の散歩中に突然道から飛び出してあなたをはねたりしないであろうことを.あなたは〔…〕多かれ少なかれ,失望の可能性を無視する必要がある.あなたは,それが非常にまれな可能性であるから,無視するのだが,またほかにどうしていいのかわからないからそうするのだ」) .*3(図)

ルーマンのこの議論は,ゼマンティク進化の議論(「歴史上のゼマンティクのこの変形,コスモロジーからテクノロジーへのこの変化」)と平行しており,したがって,なぜ「信頼」論なのか?(なぜ馴れ親しんだ生活世界の議論だけでは不十分なのか)という問いには,社会的次元という新しい複雑性への対処が要請される近代性について社会学は議論する必要があるからだ,と答えることができる.

伝統的に,馴れ親しみのないものを取り扱う馴れ親しんだ諸用語を用いることのシンボリックな機能は,宗教の領分だった.近代初期においてのみ,新しい用語(riesgo, rischio, risk)が,期待されていない結果は我々の決定の結果でありうるのだということを示すために現れたのだ.(Luhmann 1988: 96)

「リスク」は比較的新しい言葉であり,源泉が何であれヨーロッパ言語へは印刷技術の発明の後になってはじめてイタリアとスペイン経由で広まったので,我々は,この区別をなすことの可能性は,同様に社会的・文化的発展の結果であると思うかもしれない.社会的な依存にかかわらず,我々の行動が我々の将来の状態に影響を持つと考えられるその度合いは,歴史の経過に従って著しく変化してきた.たとえば聖書において,最後の審判は驚きとしてやってくるのだが,後期中世には――告解の制度の影響下で――リスキーな行動の予言された結果としてそれを表象しはじめた.罪を犯すと,あなたは魂の救済を危うくriskする.それは教会の仕事ではなく個人的なライフスタイルと努力の問題となる.(Luhmann 1988: 98)

ルーマンの〈信頼〉概念を追うことは,ここまでにしなければならない.なぜなら,ここまででほぼ明らかになったように,ギデンズの準拠しようとしている問題と,ルーマンの「信頼論」の準拠問題にはズレがある.ルーマンの信頼論は,ゼマンティクの進化に伴った問題の変動を前提にした議論であり,ギデンズのようにパーソナリティ発達の過程に焦点を当てたものではない.ギデンズのいう〈実存的不安〉existential anxiety に準拠するためには,(信頼論ではなく)馴れ親しみの議論へと遡行しなければならない.だがその前に,ギデンズが準拠しようとしている問題をもう少し詳細に素描しておこう.


……と、このように、trust/confidence-差異は、システムリファレンスとは関係が無い、です(システムに対するtrust/confidenceなのかどうかということは議論していないので、どちらもシステムに対するものでありえることになります)。
trust/confidence-差異は、帰属attributionと認識perceptionの差異のみがレリヴァントということになります。「図」とも言えない図(笑)を参照。ルーマン自身はこう言ってます:

私は確信と信頼の間の区別を提案したい。両概念とも、失望に陥るかもしれない期待を参照している。普通のケースは、確信のそれである。……他方で信頼は、あなたの側での前もっての関与を要求する。信頼はリスク状況を前提とする……確信と信頼の区別はそれゆえ、認識と帰属に依存する。

ただし、この中でぼくは『信頼』の概念図式が「FCT」の概念図式において一気に変化したと読めなくもない書き方をしちゃってますが、その間には膨大なリスク論に関する論文があるわけで、そちらをぼくは追うことができていません。「FCT」はむしろリスク論の文脈で書かれている、というか、「あーそーいえば俺、昔『信頼』ナントカって本書いたっけなあ、あれをリスク論に吸収しちゃえ」というルーマンの意図があったのではないかと、ぼくは妄想しておりますです。
   ◇   ◇   ◇
ツッコミをお待ちしております。

*1:ルーマンは注釈において,この状況を日常性への〈頽落〉Verfallenすなわち〈非本来的〉Uneigentlichkeitであるとしたハイデガーに苦言を呈している(Luhmann 1973=1990: 182).

*2:したがって浜日出夫(1996)によって「ルールの共有という事実ではなく,ルールが共有されているという仮定が,相互行為を支えている」(浜 1996: 32)として整理されたガーフィンケルの「信頼」と,ジンメルの「信頼」の「同型性」は,ルーマンにおいてはむしろ「相補性」として捉えられる.システム信頼(ジンメルの貨幣取引への「信頼」)は,むしろ「他者は同じルールに従わないだろう,その可能性は高い」という社会的次元における複雑性に対処する解決策として要請される.

*3:というよりもむしろ,〈リスク/危険〉という区別が〈内部帰属/外部帰属〉という区別に基づいた区別なのである.リスクは損害を決定に帰属する状況であり,危険は環境に帰属する状況である.