続・ルーマン信頼
今日の対話です。
ルーマン「自身」の発言、「確信と信頼の区別はそれゆえ、認識と帰属に依存する」について、その図を参照して、私はナニを理解すればよかったでしょうか。──というのがよくわからなかったです。
- ルーマンは1988論文(以下「FCT」)で、trustとconfidenceを区別したがっている、ということ。
- trust/confidence-差異は、人格信頼/システム信頼-差異、のことではない(重なることはあるかもしれないけど、言い換えているだけではない)、ということ。
- trust/confidence-差異は、リスク/危険-差異に対応する*1、ということ。
- 『信頼』では、Vertrauenが、馴れ親しみから歴史的に分出してきたものなのかどうかが、いまいちわかりませんが、「FCT」ではゼマンティク進化・社会進化と関連させて論じられている、ということ。
といったところが「回答」になるでしょうか?なってます?
ついでに
- confidenceを「確信」と訳すべきだ、とは斉藤は思ってない、単に慣例に従っただけ、
- 「ルーマンの意図」はここでは「斉藤の妄想」という程度の意味しか持っていない、
- 斉藤は『信頼』の読み込みが足りない(あと28回ぐらい)ということ、
を前提としたいでつ。
はい、やっぱちゃんと答えられてなかったでつ。
コメント欄にも書きましたが、
認識(リスク/危険)と帰属(内部/外部)のうち、認識の方は、帰属に包含できる
というより,〈リスク/危険〉という区別が〈内部帰属/外部帰属〉という区別に基づいた区別なのである.リスクは損害を決定に帰属する状況であり,危険は環境に帰属する状況である.
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と思うので、さしあたり帰属のことだけ考えればよくて、要約解釈すると、
「生じている事態を因果性を用いて解釈する際に、内部帰属するのであればその事態に先行する状況はtrustとよぶべき状況だったのであり、外部帰属がおこなわれれば、confidenceとよぶべき状況だったのだ」
- たとえば歩道を歩いていたAさんが車にはねられました。車は歩道脇の家の垣根を飛び越えてAさんにぶつかってきました。慣習convention的には、Aさんが「歩道を歩くというリスクテイク」を行った、とは考えません。車はなぜ垣根を飛び越えてきたのか?その原因は(Aさんが歩道を歩いたことでないのは当然として)何なのか?いったい誰の責任なのか?(以上、外部帰属)
- 一方、車の持ち主Bさんは、こう主張します。「車はきちんと車検に出していたし、今まで異常な作動を見せたことなどなかった。鍵だってちゃんとかけていたし、ギアはパーキングだったし、サイドブレーキもかけていた。責任があるとすれば車検担当のC社だ!」(以上、外部帰属)
- しかし、Bさんは内心こう思っていました(おれ、本当にパーキングにしていただろうか……というか、車を買うときに安いからっていいかげんな中古屋で買ったんだよな……あのときもっとちゃんとした店で買ってたら、こんな大事件はおこらなかっただろうな……とほほ、俺のせいだ……)(以上、内部帰属)
整理すると、
- Aさんは歩道の安全をconfidenceして歩いていた。
- Bさんは車検の安全をconfidenceしていたがゆえにその車を保有していたのだと主張した。
- しかし
Bさんはちゃんとした車屋で買えば、ちゃんとした車が買えるということをtrustしている。
[追記]↑の3はちょっとおかしいね。「ちゃんとした車屋で買えばちゃんとした車が買えることをconfidenceしているが、それほどちゃんとしてなくてもそうそうおかしな車を買わされることはあるまい、ということをtrustしたがゆえに、リスクテイクを行った」というところでしょうな。
ということは、Bさんの主張は、「世間の」車検の安全へのconfidence、を掛け金にしたクレームという性格を(Bさんの心の中では)持つことになるでしょう。
寝起きなのでダラダラ書いてます。
あ、肝心のことを書いてなかった。
confidenceを「確信でなく信用と訳す」説に、ぼくは個人的には大賛成です。
理由は、「確信」だと、やはり程度問題を想起させるので(trust/confidence-差異を、意識的/無意識的-差異と思ってしまう人がいなくはないのでした)。
*1:「対応」のイミはよくわかりません