時間的に展開された自己言及、としての形式

我田引水ですが。自分の論文に「生活世界」論文を引用していたので。
【傍点のかわりにこの括弧で】

  • 斉藤日出夫、2004、「信頼・不安・無気味――ルーマンの〈信頼〉概念と〈生活世界〉概念――」『現代社会理論研究』第14号

観察は区別を用いた〈指示〉である。指示が反復されたとき、直観的に納得できることだが、たんなる区別以上のもの、つまり価値が発生する。「明確に確認されなければならないことは、区別というものが基本的に非対称〔優位関係の落差があるもの〕だということである」(Luhmann[1986=1998:107])。ここにおいて単純な論理学からは離れることになる。

どんなに反復されても、それはつねに同一の指示でしかない。即ち┐┐=┐である。スペンサー・ブラウンはこれを、凝縮(condensation)の形式と名づけている。しかしこの世界では、その意味を変更せずに二度指示されるものはない。したがってわれわれは、反復の意味的多値性に注目せざるをえず、指示が反復されることによって馴れ親しまれたという性格(ならびにそれによる動機づけ)が発生すると解釈しなければならない。指示が反復されることによって、指示されたものは馴れ親しまれたものとなり、人がそこから出発したところの【区別が同時に】、馴れ親しまれたものと馴れ親しまれていないものという付加的性格を獲得する。(Luhmann [1986=1998:107]、傍点引用者)

つまり区別は指示(の反復)によって、意味の価値的なヒエラルキー化をおこなう(18)。指示されて凝縮された意味的世界において、我々は馴れ親しまれたものと馴れ親しまれていないものという、価値的に区別された世界に生きることができるようになる。通常、われわれは馴れ親しまれた世界に生きる。「今やわれわれは、あらゆる馴れ親しまれた意味凝縮物の指示連関を生活世界とよぶことができる」(Luhmann[1986=1998:108])。そしてルーマンは「馴れ親しまれたものとそうでないものとの【区別それ自身が】、馴れ親しまれた区別となる」(Luhmann[1986=1998:109]、傍点引用者)という。これが〈再参入(re-entry)〉とよばれるところのものである。区別によってマークされた空間に当該区別が導入されるのだ。指示されて凝縮された意味的世界において、我々は馴れ親しまれたものと馴れ親しまれていないものという、価値的に区別された世界に生きることができ、さらに価値的【区別に】馴れ親しんで生きることができるようになる。

  • Luhmann, 1986, “Die Lebenswelt- nach Rucksprache mit Phanomenologen", Archive für Rechits- und Sozial Philosophie, LXXII/Heft 2, Franz Steine Verlag, Wiesbaden GmbH.(=1998,青山治城訳「生活世界: 現象学者たちとの対話のために」『情況』1・2月合併号: 101-131.)

社会学理論の“可能性”を読む

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↓は上記引用の続き。

スペンサー・ブラウンは、凝縮の形式と全くパラレルにこの操作を無化cancellationの形式、即ち= と表記している。先行する操作をその操作による区別の他の側面にも及ほすために新しい操作を行うことは、先行する操作を打ち消すことになる。ここでもわれわれは、慣れ親しまれたものと慣れ親しまれていないものという区別がなされる場合でも、凝縮されていない区別の場合におけるように、区別されたものの問で起こる横断は指示を消し去るのではなく、そこに立ち戻る用意があるのだということを承認して、〔先行する操作の打消しという結論を〕回避したい。なぜなら、慣れ親しまれたものが濃縮されるのに応じて、人は慣れ親しまれていないものとも関わることができ、慣れ親しまれたものと慣れ親しまれていないものとの両者を区別の両面として保持することによってその区別へ立ち戻ることが可能になるからである。そうした両面問の横断が慣れ親しまれたものを慣れ親しまれたものたらしめる区別をつねに再活性化し、それによって慣れ親しまれたものに差異的な質を与える、と考えることができる。(Luhmann [1986=1998:108])