セジウィック

クローゼットの認識論―セクシュアリティの20世紀

クローゼットの認識論―セクシュアリティの20世紀

ホモフォビアとは、文字どおり同性愛に対する嫌悪なのだから、ホモフォビックな観点は、同性愛とそうでないものとを区別していなくてはならない。すなわち、異性愛者と同性愛者とにすべての存在者を分割する、近代のセクシュアリティ・コードを前提としていなくてはならない。ホモフォビックな観点は、だから、存在者Sを、「Sは異性愛者/同性愛者である」と把握するものであるといえる。もちろんあらゆる観点が、「Sはpである」という把握をする(pには、ジェンダー、人種、階級、国籍など、存在者についての考えうる属性を代入できる)。このことは第2章第2節でふたたび詳しく論じることになるが、このような把握の仕方は、《人々は互いに異なっている》という《自明の事実》(Sedgwick[1990=1999:35])と真っ向から対立するものだ。たとえばセジウィックのあげる「個人の差異のリスト」のひとつめの項目は、《同一の性器的行為でさえも、人によって異なる意味を持つ》[ibid. :38]というものだ。このような自明な事実が、「Sは異性愛者/同性愛者である」という把握をした瞬間に隠蔽されてしまう。ここでSにはどんな固有名を代入することも可能であり、ということは、あらゆる固有名は並置可能なもの、取り替えのきくものになる。つまり、ここで起こっているのは、互いに異なっているはずの個々の人々の差異を知ることなく、人々を「知る」ことができるということだ。つまり、「(非)pである」という同一性についての知識をもってさえいれば、差異については無知のままでいることが可能なのだ。

無知は、いまだ明かりの灯されていない不透明な暗闇なのではなく、知識によって生産されたものである。このことを逆転させていえば、知識は無知によって構築されているということもできる。知識と無知は、相互に関連して支えあっている。このような「無知」のとらえ方はいわゆる啓蒙主義の仮定に対立するものであろうが、無知が知識を構築するのだとしたら、教育とは、知識ではなく無知を内面化させることであると定義できるかもしれない。

そのような無知の効果は、《権力の磁場》となるものだ。《解釈の慣例に対して知識の幅のより狭い、あるいは狭いふりをする対話者の方が、やりとりの条件を画定するのである》[ibid.:13]とセジウィックは述べる。たとえば、ミッテランが英語を知っておりレーガンがフランス語を知らないとすれば、ミッテラン氏は英語で話さなければならず、レーガン氏は自分の母語で話しても良いことになる。この権力の磁場圏内においては、「知っている」者よりも「知らない」者の方がより優位な立場に立てるのだ。(差異について)無知な者が、(差異について)知っている者から「知る」権利を奪うのだといってもいいだろう。