その他

上野千鶴子[1996:111]は次のように述べている。《近代以前には性について語ることが「内面」や「人格」に結びつけられて考えられることはなかった。(…)「われわれ」から「わたくし」というものが分離し、「われわれ」に還元しがたいものだけを、人々は「個性」や「人格」とみなすようになる》。上野はつづけてアイデンティティ研究から次の箇所を引用する。《どうやらわれわれには、隠したものを自分の本質と信じる傾向があるらしい。本質を隠す傾向ではない。隠したものを本質と信じる傾向だ》(石川准[1992:24-5])。


セクシュアル・ストーリーの時代―語りのポリティクス

セクシュアル・ストーリーの時代―語りのポリティクス

ケン・プラマーは、このような、コミュニティ(社会的空間)とアイデンティティを同時に構成するような後期近代に特有の状況を「セクシュアル・ストーリー・テリング」というキーワードでとらえている。メディアの生む共同体、社会的世界によってセクシュアル・ストーリーは公共的世界へと流れ、共有される。《ここに地縁や直接的で対面的な接触を基礎にしない、メディアを基礎にした新たなサポート・コミュニティができあがりつりある》(Plummer[1995=1998:94])。

このことは、critique/Kritikということをどう考えるかという問題だと思われる。通常critiqueは批評とか批判とか訳される。社会学はこの語感からいって、社会をcritiqueする学問であるといってよい。しかしここでいう批判/批評からは、「〜してはいけない」とか「〜べきだ」といった命題は必ずしも導かれないのではないだろうか。批評=批判を規範命題に倭小化してはならない。「差別があるから、やめなければならない」というのではなく、「この差別を存続させることによって、何が/誰が、いかなる利得を得ているのか」というコスト計算を行うことが批評/批判である。「ジェンダー・カテゴリーは所与のものではなく社会的に構築されたものである」という命題からは「カテゴリーそのものを撤廃しなければならない」という命題を導くことはできない。クリティカルであるとは、ジェンダー・カテゴリーの存在によって社会はいかなる利得を得ているのかを計算することである。キース・ヴィンセントが定義したように、クィア・セオリーは、《「ゲイもレズビアンも人間だから、差別しないで私たちも社会に入れてください」といういわばリベラルな善意に訴える戦略の代わりに、「私たちを差別することによって社会は何を得ているのか」と問い直す》(ヴィンセント[1999:94])。