フーコー

知への意志 (性の歴史)

知への意志 (性の歴史)

19世紀の同性愛者は、一個の登場人物となった。(…)彼の内部の至るところに、彼の生的欲望sexuality は現前している。それは彼のあらゆる行動の内部に隠れている、というのも、それは彼の行動の油断のならぬ、無際限に積極的な原理に他ならないからだ。(…)かつてソドマイトは性懲りもない異端者であった。いまや同性愛者は一つの種族なのである。(Foucault[1976=1986:55-56])

死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現われた。(Foucault[1976=1986:175])

婚姻の装置と同様、セクシュアリティの装置は性的に結ばれた相手という関係に接合される。しかしそのありようはまったく異なるのだ。(…)婚姻の装置は、社会体のホメオスタシスを維持する役割を担っている。そこから法に対して特権的な絆を持っている。そこからまた、重要な段階は「生殖=再生産」だということになる。セクシュアリティの装置の存在理由は、生殖=再生産することではなく、増殖すること、いよいよ精密なやり方で、身体を(…)発明し、貫き、そして、住民をますます統括的な形で管理していくことにある。(Foucault[1976=1986:139-142])