レジュメ作成・準備

落合恵美子、2004、「ウーマンリブと家族解体」『21世紀家族へ 第3版』(有斐閣)

  • ウーマンリブとは何だったのか
    • 「家族の戦後体制」には3つの特徴があった
      • 女性の主婦化
      • 再生産平等主義
      • 人口学的移行期世代が担い手
    • 「家族の戦後体制」は、その後どうなったか。統計的な数字に変化が現われるのは75年くらいだが、社会的な事件や社会運動のかたちをとった出来事は70年代の初め。
  • わたしにとってのリブ
    • 落合は当時中学生。つまりリブ「体験」はメディアを通したもの。メディアでは、《彼女たちが運動として何を主張したかということより、ショッキングな風俗という報道ぶり》だった。
      • 《中学生だったわたしは、夜、父が買ってきた週刊誌なんかを広げて、そういう記事を食い入るように読んだものです。ひどい書き方だと思いましたが、それにもまして「そんなことをしている女たちがいるのか」って、なんだかワクワク、ドキドキした。そんな歪んだ報道からでも、たしかにメッセージは嗅ぎとれた、という気がしました。子どもながら「女だから〜してはいけない」と言われるたびに、「なんで?」という思いが積み重なっていましたから》
    • 《当事者ではないが何らかの感覚を知らないわけではない、リブに共感したが「リブ以後」に残された問題もいろいろ体験した》というのが落合の立場。
  • 女に忠実になる
    • カウンターカルチャーの流れを汲んで、しかし、そういう運動に対する反発として、リブは出現した。
    • 《女に忠実になるところからしか我々の斗争はありはしない(思想集団エス・イー・エックス もりせつこ)》
    • 「特別待遇」でも「名誉男性」でもなく、《あるがままの女でいたい、いていいんだと自己肯定しようとした》。「おんなの論理」が合言葉。
  • プライベートな問題などない
    • 《公的な部分と私的な部分とを区別して優劣をつける、そうした社会常識》への異議申し立て。
    • 《プライベートな問題などありはしない》(もりせつこ)
  • 性と中絶
    • ウーマンリブ運動の運動としての最大のピークが、1972年の優生保護法改悪阻止運動》
    • 戦後の日本は、「優生保護法」によって、経済的理由でも人工妊娠中絶ができる状況にあった。→人工妊娠中絶が認められる条件を狭めようという動き。
    • ←「新宿リブセンター」と《ピンクのヘルメットとマスコミ受けする戦術でリブの代表に祭りあげられた》「中ピ連」。
    • 1975年「国際婦人年」以降、「国際婦人年をきっかけに行動を起こす女たちの会」など。
  • 女性幻想の否定
    • リブの「家族」への態度はどうだったか。
      • 《男の〈母〉か、〈便所〉かという意識は、性を汚れたものだとする性否定の意識構造から生じる両極の意識としてある》(田中美津「便所からの解放」)
      • 主婦、妻、母などの女性役割に対する幻想を疑い、否定する。
  • 家族解体
    • 結婚制度や家族制度の否定へ。
      • 坂元良江「家族解体を試み続けて」
        • 《抑圧的な家族だから、ではなく、家族であること自体がそもそも抑圧的だから解体する》
      • 家族解体と家族実験:コミューン、「極私的エロス・恋歌1974」「青春の殺人者」。
  • フェミニズムの二つの波
    • 家族の変化とウーマンリブ運動との関連。
      • 【第1の波】19世紀の終わりごろから第一次大戦まで
      • 50年の空白*
      • 【第2の波】1960年代末から
      • *の謎。
      • 内容的にみた差異。
        • 第一の波では公的領域=政治と経済に関心の中心を向けていた(婦人参政権、労働者階級女性の労働条件)。フリーマンのまとめ:「初期には……広範で多面的な運動であった」第一の波も、「終わり頃になると、主として二種類のフェミニストたち――婦人参政権論者と改良主義者――の関心をつかんだものにすぎないものになってしまった」
        • 改良主義者=「母性主義者」
  • 近代家族とフェミニズム
    • 50年代アメリカ=主婦の時代。2ndWaveはこの「女は家庭に」という「近代家族」への反発。
    • 近代家族とフェミニズムの関係についての仮説:ヨーロッパでは、19世紀には中産階級において、20世紀の30年代くらいまでには社会の全階層に、近代家族という一つの歴史的家族類型が成立→公的領域と私的領域の区別→それぞれ男性と女性に割り当て→新しい社会秩序の出現にともなうルールの混乱→【1stWave】
    • 男女の形式的平等と現実的棲み分け=50年間の近代家族の体制(*)。
    • 近代家族の崩壊→ルールの混乱→【2ndWave】:公私の分離と女性の家庭役割を疑う運動。
    • 日本では、《解体されるべきは近代家族なのか、家なのか、意識的に区別することなく渾然一体》
    • 「家からの解放」と「家族からの解放」。問題は次の時代にもちこされる。


落合恵美子、1989、「近代とフェミニズム――歴史社会学的考察――」『近代家族とフェミニズム』(勁草書房)

  • なぜ「近代」か?
    • フェミニズム近代主義と反近代主義への分裂?=産業社会批判と、それを前近代賛美のアナクロニズムと呼ぶ批判。
      • 「女性原理」という言葉を使うか否かという用語上の問題にすぎず、憤りの対象と目指す社会のイメージは共有している。
    • 《近代社会は「幻想として女性を外におきつつ、内部システムの一部とするという矛盾」した構造をもっているため、女性解放論は「内部システムの一部として正当な権利を主張」する方向(男並み平等!)と「外にある女性としての幻想に依拠」する方向(母幻想!)とに一見分裂してしまい、互いに足元をすくいあう二重拘束状況におかれてしまう》(江原)
  • 「近代」をめぐる思想史
    • 母性保護論争
      • 「第一の波」における「近代」をめぐる葛藤:「母性保護論争」(平塚らいてうvs.与謝野晶子)一般には、らいてうの母性主義と晶子の近代個人主義の対立、といわれる。
        • 「母性主義」とは、女性の固有性を「母性」に見て、子どもを産み育てるという女性の役割をより一般的な価値に高め、そこに近代生活で失われがちなものを見出したり、かつてあった全体性の回復や共同的なるものの再生の拠り所としようとしたりする思想
      • この対立は単純ではなく、晶子の場合、母でありながらもそこに浸りきることのできない自我;近代個人主義―らいてうの場合、「新しい女」をもって任じた自分に生じた「母たらむとする欲望」を意識するという体験から、狭隘な「近代的自我」が押し広げられるような感覚を味わった;「母性主義」
      • らいてうの「母性保護」は「反近代主義」か?:らいてうが導いたのは、理念的な前近代社会の美化や近代産業社会の全面的破壊ではなく、あくまで現実的な社会改良すなわち国家による母性保護の要求であった。
    • 欧米の「第一の波」
      • 欧米における1stWaveは婦人参政権獲得運動とほとんど同義だった(ブルジョワ・フェミと社会主義者〔=改良主義者=母性主義者〕の競合)という誤解。これは真実ではない。
      • フリーマン:1stWaveも「初期には、女の生活のあらゆる側面に関心を示した、広範で多面的な運動であった」「終わり頃になると、主として二種類のフェミニストたち――婦人参政権論者と改良主義者――の関心をつかんだにすぎないものになってしまった」
        • 大陸圏での「母性主義」の登場。「ドイツ婦人団体連合」(BDF)のボイマー:「民族共同体」の樹立のための母性原理(調和と回復の原理)→公的領域における母性理念の貫徹→「女性独自の視点」(1860年代〜)、1890年代に確立→ナチスの台頭を抵抗なく受け容れる素地。
      • 19世紀の最後の10年頃から多様な方向を包摂しようと努めていた初期の運動の緊張がゆるみ、参政権近代主義)と母性主義(反近代主義)へと分解した。→しかし参政権論者は「社会改革のために婦人参政権が必要である」という主張へ→解体に見えるが、整合的な関係が成り立っていた→整合性のかなめとなっていたのが「家庭役割」(女性の家庭役割を前提にした母性保護など社会政策的要求)→「家庭崇拝」
    • ウーマン・リブ運動
      • @日本:生産至上主義の「男の論理」に人間性あふれる「女の論理」を対置→自然食運動、教育保育運動や鍼灸・整体などの方向へ。
      • @欧米:近代社会の性、愛、再生産の批判。人口生殖、レズビアニズム。→これらに対しいったんは「近代主義」のラベルがはられたが、それは「反近代主義」のイメージ――回顧趣味的共同性志向――にそぐわなかったからにすぎない。→ラディカル・フェミニズム近代主義対反近代主義の対立軸を超えている。
      • 1stWaveとの最たる違い:女性の「家庭役割」がそれ自体議論の俎上に引き出されていること。
  • 「母性主義」とは何か
    • ここでは「母性主義」という言葉を広義に用いて、エコ・フェミなども含めて、性差を肯定的に強調するフェミニストの全体を「母性主義」とよぶ。
    • 「母性主義」の理論的骨格:混沌/秩序、あるいは文化/自然という二元論。男性/女性をこれに対応させる(西洋/日本も同様)。
      • ニーチェ生の哲学など19世紀後半の産業社会への嫌悪や西欧没落の危機感のなかで高まった反理性の哲学は、カオティックなエネルギーの信奉をモチーフとする。
    • 問題は自然と文化の二元論だが、しかし、自然と文化の二元論は本当に普遍的なのだろうか。→18世紀に強められた近代的な考え方であるらしい(ルソーをはじめとする啓蒙の思想家たち)。→19世紀になると産業社会化の進展に対する思想的反動で「自然」概念の強調、価値上昇。
    • 文化/自然に男性/女性を対応させるしかたも疑わしい。女性は出産機能をもつという身体的特殊性とそれに関連した授乳や幼児の世話で「家内関係」に縛られているという理由のため「自然」に近いとされる(オートナー)が、女性の社会的役割が何をおいても母親であることとなったのは西欧では18世紀以降・家内的領域が他の社会的領域から区別されたのも同時期=「近代家族」の誕生
    • 「母性主義」は結局、思想的にも政治的にも「近代」を否定しはしなかった。
  • フェミニズムの歴史社会学
    • 落合の仮説:19世紀の後半から次第に輪郭を現わし20世紀の初めに確立し1960年代の半ばからまたゆらぎつつあるひとつの時代があって、その時代の始まりと終わりの社会規範が動揺している時期にフェミニズムは二回の高まりを経験した。
      • 「ひとつの時代」とは、産業化の影響が全社会領域を支配した時代といえるかもしれないが、ここでは「近代家族」と「近代国家」の全盛期といった方がよい。
      • 16世紀ぐらいから始る広い意味での「近代」の一局面。
    • 【1stWave】公的領域と家庭領域の分離の明確化あるいは「近代家族」の誕生という、この頃の大きな社会史的変化を背景。
      • 18世紀に「近代家族」化し始めたのは、人口のごく一部の中産階級でしかない。人口の圧倒的多数が「近代家族」化するには、1870年代から1930年代あるいは40年代頃までかかった。
      • 婦人参政権、母性保護、産児制限などはみな、「近代家族」体制を支えるもの。
    • 【2ndWave】女性の「家庭役割」、性別役割分担が疑われだしたこと。「反近代主義」ではない現状批判の視点をもつフェミニズム。=「脱近代主義」(狭義の近代の終わり、広義の近代にしてみたら局面転換)
      • その「近代」の中身は、1stWaveが批判した「近代」(自由主義的・市民社会的)と同じではなく、19世紀末からの「近代」(管理主義的・国家介入的)。→おそらく「近代」とは、各時代ごとに、体制に貼りつけられたレッテルでしかない。
        • 「性差」からの解放は、むしろ人々の多様性の解放。
        • また、この影響は両性間の関係だけではなく、社会全体に及ぶ。



宮坂靖子、1999、「家族研究とジェンダー」野々山・渡辺(編)『家族社会学入門―家族社会学の理論と技法―』(文化書房博文社)


山根真理、1998、「家族社会学におけるジェンダー研究の展開―1970年代以降のレビュー―」『家族社会学研究』No.10

  • 本稿の課題
  • 視点と方法
  • 研究テーマの概観
  • ジェンダー研究の理論的貢献
  • ジェンダー研究の実証的成果
  • 今後の研究課題


山根純佳、2004、「はしがき」『産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム』(勁草書房)

  • フェミニズムの主要な論点である中絶の自由の獲得、という主張に説得力を与えるために、フェミニズムリベラリズムの「権利」の概念を採用した。
  • 一方でこの「権利」の主張は、胎児という存在に向けられるとき、その説得力を失う。「自己」と「他者」の明確な区別を前提に構成されているリベラリズムの枠組みにおいて、中絶は女性「個人」の「所有権」や「プライバシー権」として擁護される。この枠組みにおいて胎児は女性の所有物に還元されざるをえず、中絶反対派からは胎児の「生命権」や「人格」を主張することで制約を加えようとした。
  • しかしフェミニズムは胎児を所有物とみなし胎児の生命を軽視する思想ではなかった。中絶の葛藤についても論じてきた。フェミニストは中絶の自由を論じるのにリベラリズムの概念に依拠しなければならないことに対する違和感やいらだちをも表明してきた。
  • リベラリズムの問題点がフェミニズムの議論のなかで明確にされてきたとはいえない。これを言語化しようとしたのが本書である。
  • フェミニストが主張する〈私の身体は私のもの〉とはリベラリズムの身体の自己所有の概念と同じなのだろうか。〈産む産まないは女が決める〉とは、リベラリズムプライバシー権の承認を意味しているのだろうか。
  • リベラリズムにおいて、胎児は「私の身体」の所有物か「私の身体」と別個の権利主体かどちらかでしかありえない。しかし、フェミニズムの言説において妊娠・中絶をめぐって語られる「私の身体」とは、胎児と明確な境界を前提とした「私の身体」ではない。


山根純佳、2004、「産む産まない権利とリプロダクティブ・フリーダム」『産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム』(勁草書房)

  • 中絶の権利の諸問題
    • 「性と生殖をめぐる自由/リプロダクティブ・フリーダム」は、基本的人権のひとつとして広く承認されつつある。
    • リベラリズムは近代社会の基礎を支えてきた思想であり、近代とともに開花したフェミニズム運動に政治的言語を与えてきたのも、リベラリズムであった。
    • 中絶の権利は、フェミニズムリベラリズムの言語が重なり合った地点で、実現されてきたもの。
    • 欧米各国で中絶が合法化されたのは、イギリス1968年、アメリカ1973年、フランス1975年である。日本は例外的に、1948年の優生保護法の制定によって堕胎罪が空文化され、中絶は実質的に合法化されていた(96年に「母体保護法」に改正)。
    • 中絶の「権利」の主張に対しては、「胎児の生命の尊重」という観点からつねに批判が向けられている。
    • しかしここで見過ごしてならないのは、このような対立図式が生じたことは、フェミニズムにとっては意図しない結果だ、ということである。そもそもフェミニズムの中絶の権利要求の宛名は、国家の堕胎罪の規定や、女性に子を産むことを強制する家父長制であった。
    • 本書で検討の対象とするのは、リベラリズムにおける権利概念であり、権利が帰属する主体とされる「個人」(自己)をめぐるリベラリズムの諸前提である。以下、リベラリズムにおける権利を「権利」と表記。
    • ではFとLでは中絶の「権利」はどのように概念化されているか。
      • 「リプロダクティブ・フリーダム」ならびに「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」が含意しているのは……産まない自由だけではなく産む自由も含まれるのであり、女性が自らの性と生殖について自己決定できる社会状況の整備を要請するものである。
      • Rにおいて、中絶は身体への「自己所有権」や「プライバシー権」として、正当化されてきた。この「権利」概念の前提にある「個人」とは、「他者」と明確に区別された各々独自の生き方や利益を追求する存在であり、また「身体」とは個人が所有するものであり、個人の自由を可能にするための起点として考えられている。……ここから、中絶の「権利」とは、女性という「自己」が、「胎児」に対して行使する権利、という解釈がうまれる。
      • しかし、妊娠のような現象を別個独立の「個人」を前提としたRの概念の枠内に位置づけることは妥当なのか。
      • このような観点から、Fから「権利」の概念およびLに対して批判が投げかけられてきた。しかしFが「権利」概念を手放すことは、自らの政治的言語の喪失を意味することにつながる。
      • では中絶問題をめぐってFはLの「権利」のいかなる点に異議を申し立ててきたのか。
  • リプロダクティブ・フリーダムと中絶の「権利」
    • 1996年には悪名高き「優生保護法」が「母体保護法」に改正された。この改正には1994年の国際人口・開発会議(カイロ会議)において、リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康/権利)が公認されたことや政府の精神障害者政策の転換などが影響している。
    • ここで最も大きな問題は、中絶が未だ刑法上犯罪でありつづけていることである。刑法第二一二条に堕胎罪は存続させながら、母体保護法に定める中絶の要件を満たしている場合に限って中絶は可能(厚生事務次官通知「通常妊娠満22週未満」)。
    • 本書で考えたいのは次の2点。
      • 堕胎罪の存否をめぐる問題。堕胎罪は「妊婦の身体・生命」と同時に「胎児の生命」を保護法益にしている。
      • 生命の質を選択する出生前診断の是非をめぐる問題。産まない権利は、障害者を抹殺する権利なのか。胚や胎児は道徳上どのような存在として扱われるべきなのか。



山根純佳、2004、「井上達夫・加藤秀一の論争」『産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム』(勁草書房)

  • 中絶は権利葛藤問題か
      • 井上達夫加藤秀一の論争(『生殖技術とジェンダー』に収録)。リベラリズムに依拠した法学とフェミニズムというディシプリン間の齟齬がこの論争でみごとに露わになっている。
      • 加藤は、井上の立論=「堕胎の道徳性の問題を、女性の自己決定権と胎児の生命権との間の『道徳的葛藤(moral dilemma)』として捉える」「『胎児の生命権』と『女性の自己決定権』の相克という問題構成」そのものに異議を唱える。
      • 最終的に加藤は井上の議論に対し「拙稿が提示した問題を完全に無視し…したがって、拙稿に対する反論としてはほとんど見るべきものがない」としている。
      • この「すれ違い」からわれわれが学ぶべきものはなんであるのか。
    • 「胎児の生命権」:井上
      • ≪まず第1ラウンド≫
      • 井上は「線引き論」を批判する。
        • 「線引き論」とは:「受精後胎児が一定の発達段階に達するまで堕胎が許されるが、それ以後は許されない」という立場。
      • 「なぜ線を引かなければならないのか」「そもそも線を引くことは可能か」
      • 胎児に生命権はないとする議論は、生命権の資格を正当化要求能力や自己意識の保持に求めるが、これらの要件は胎児の生命権を否定する十分な理由とはならない。ゆえに、胎児に権利を承認することは可能である。
      • 胎児の生命権を承認することは、問題の解決をもたらすものではなく、問題の考察の出発点である。胎児は人ではないから、生命権は問題にならない、したがって「堕胎は余分な脂肪を手術で除去してもらうのと同様に、自己決定の問題である、という論法」に陥ることなく、中絶の道徳的正当化の問題を直視すべき。
    • フェミニズムにおける自己決定の意味:加藤
      • 加藤の井上に対する批判の論点は2点。
        • 【1】「線引き問題」について。井上も「受精の瞬間をもって生命権の主体とする」という線引きを行なっている。さらに、かかる前提は井上の「直観」に他ならず、孕む女性の「直観」すなわち「胎児は自己の一部であるとともに他なるものであるという両義的存在として感得される」という身体感覚を無視したものである。
        • 胎児と未来の世代を含む「未だ生まれざるものたち」を「われわれ(=人間)」に回収しようとすることは、途方もない暴力である。胎児という「辺境的存在者」をいかなる意味でも「われわれ」とは呼び得ない「他者」として「われわれ」の思考と情動の果てに措くという、別の倫理の可能性を提示。
        • 【2】女性の自己決定という考え方について。井上にとって女性の自己決定という観念が許しがたいものであるのは、女性というひとつの「自己」のみの利害を斟酌し、胎児という「もうひとつの自己」を無視するからだ。しかし、自己決定における「自己」とは、(1)胎児との関係における自己、と(2)家父長制との関係における自己、に分けられるべき。フェミニズム運動における「自己決定」の「自己」とは、第一義的には家父長制との関係における「自己」である。井上の批判がフェミニズムに対する論難としては当たらないとする論拠は次の2点。
          • フェミニストは「自己決定権」を「プライヴァシー」などと同列に論じていない。フェミニストにとって重大な問題は、女性の選択の内容でなく、「選択権」そのものですらなく、むしろ選択がなされる際の社会的・物質的な諸条件(ペチェスキー)。
          • 中絶実行者が胎児を「所有物(=脂肪)」とみなしているという表現は、法学的には妥当だとしても、フェミニストからは認めがたい。フェミニストが概念化しようとしてきたのは、主体の所有物として語られるのではないような身体の意味であり、それゆえ同時に「主体」という概念の組み替えであった。
    • 「葛藤論」の意義:井上
      • ≪第2ラウンド≫
      • 井上は加藤の批判は根本的な誤解にもとづいているとし、女性の自己決定権と胎児の生命権との間の「道徳的葛藤(moral dilemma)」という自らの用語の意義を以下のように説明する。
        • 「道徳的葛藤」とは「一方を立てれば他方が立たない」ような状況をさすものであり、その意味で女性の自己決定権の規範的妥当性を胎児の生命権と同様に承認している。
        • かかる道徳的葛藤は、両者がいずれも絶対的権利ではなく「一応の権利」すなわち、より重大な考慮による制約を受ける権利であることを含意する。
      • 井上は自らの立場を「葛藤論」と名づける。「葛藤論」とは女性の自己決定権の尊重と胎児の生命権の尊重の両者をともに認める。
      • 「線引き論」について。堕胎の正当化可能性にとって問題は、「線引き論」にとっては「いつ」であるが、「葛藤論」にとっては「なぜ」である。「いつ」を問題にする規制は葛藤の調整可能性を排除する。
      • 胎児の生命権を否定しない限り堕胎は正当化不能とする加藤の議論は、生命権を認めたら堕胎は許されなくなるとする「線引き論」である。
      • 胎児を両義的存在ととらえる女性の身体感覚は、ユダヤ人と胎児の道徳的に重要な差異を「証明」するのに十分ではない。
    • 「中絶は殺人ではない」:加藤
      • 井上が加藤の議論を「堕胎の可否が胎児の権利主体性の有無によって一義的に決定される線引き論」としたことに対し、加藤は井上が
        • 胎児は人間である「ゆえに」堕胎は正当化不可能
        • 胎児は人間ではない「ゆえに」堕胎は正当化可能
      • という二分法を採用していると誤解したが
        • 胎児は人間である「しかし」堕胎は正当化可能
      • という主張であったとし、これは「道徳的に許される殺人」が存在するという命題と等価であるとする。自らの立場は
        • 胎児は人間ではない「しかし」堕胎は正当化不可能
      • というものに近い。
      • 中絶をめぐる倫理問題を「複数の権利主体間の葛藤」と捉える井上の立論を認めることはできない。倫理問題はそもそも「権利」論には回収され得ない広がりをもつ。
      • 加藤の立場は「線引き論」よりは「葛藤論」に近い。だがそれは、「われわれ」と同等の倫理的配慮を受けるべき存在者=「人間」human beingとして認める「葛藤論」(=井上)ではなく、潜在的な(potential)「人間」として認めるという「葛藤論」である。
  • 論争のすれ違いが意味するもの
    • 両者の議論の多くは「線引き論」をめぐる争いに費やされているが、最終的に「葛藤論」を支持するという点では、両者に大きな違いはない。
    • しかしここで重要な点は、井上が権利主体同士の「葛藤論」を支持するのに対し、加藤は、権利主体ではないけれども女性の自己決定権と倫理的葛藤をもたらす存在として胎児を位置づける「葛藤論」の立場に立っている点である。
      • ここでは井上=「権利葛藤論」、加藤=「倫理的葛藤論」と呼ぶことにしたい。
と山根は区別するが、井上は自らの葛藤を「道徳的葛藤」と呼んでおり、むしろこの対立を「道徳morals」と「倫理ethics」との対立と整理したほうが読みやすいものになるのでは。むろんターム上の区別にすぎないが。
    • 井上の前提は、胎児が「権利主体」でなければ、道徳的葛藤問題として論じることは不可能である、という論理。
    • 一方加藤が苦闘しているのは、井上の論法(「権利主体」か「中絶の道徳的問題を無化するか」)の論理である。
    • だが加藤の議論には不整合な部分もある。なぜ加藤の議論においては胎児が「権利主体ではないこと」が強調されねばならなかったのか、理由は明確ではない。そもそも「個体的存在者」でなければ権利主体=人間ではない、という主張も、加藤の「身体感覚」でしかない。加藤も、個体として独立できることをもって人間であることを確定するという、「線引き」を行なっている。
と山根は述べるが、加藤の議論は「胎児は権利主体ではない」ことを主張するものではなく、「権利‐主体」であるか否か、ということは完全に棚上げしたうえで議論すべき水準の問題として、フェミニズムは女性‐身体と胎児‐身体の関係を論じてきた、ということを確認しているに過ぎないのではないか。 また、加藤は「個体として独立できることをもって人間であることを確定」しているだろうか?女性‐身体もまた、免疫システムや消化器官に依存しているがゆえに個体でも人間でもないということは可能である。ここで示唆されているのは、「人間」を「個体」(あるいは「統一(unity)」)としてみなす観察の準拠するオーダーの問題である。 いうまでもなく井上は法に準拠し、加藤は法の環境にすぎない「個体(権利主体)」から観察をスタートさせながらも、オーダーを変え、法に準拠する以前に措定されるような、物質的連続体から倫理を立ち上げようとしている。むろん、そのような「以前性」自体が仮構されたものにすぎないともいえるが、加藤の議論で重要なのはそのような仮構を可能にするような「法による(法が前提として利用する)仮構」の、一段階高次のオーダーへの準拠を示唆しようと試みている点である。その試みが成功しているかどうかは別の問題だが。 また、この「論争」で井上が徹底して法にのみ準拠しようと努める態度は、法(哲)学者の態度としてはまっとうである。
    • ここで江原由美子による解説を導入する。
      • 加藤の目的は、「そのような形でしか『自己』や『身体』を語れない従来の法学や法哲学」に対して全面的に異議申し立てを行なうことである。井上が前提とする法体系の内部で「合意」を形成することにはない。
      • 女性は妊娠という出来事に関して、「自己」・「自己の身体」・「他者」等の概念枠で語ることに困難さを感じている。「胎児は自己の一部であるとともに他なるものでもある」という女性の「身体感覚」の言明が、胎児=体脂肪論と解されるのは、「胎児」もまた「自己の身体」であるか「他者の身体」であるか明確に定義されなければならず、決定されなければならないと考える枠組みの中で考えるからである。
    • 井上によれば、女性の身体感覚とは、胎児の「存在論的な地位」を述べたものにすぎず、これをもって胎児の「道徳上の地位」を問うている井上の議論を批判することは、妥当ではない。胎児は両義的であっても、生命権の主体とみなしうる。
    • しかし江原によれば、この主張は、女性にとって「自己の一部とも感じられるものに対し、独立した人間、他者の身体と同様の配慮を示せ」ということを意味するのであり、「理不尽」なものである。
法の命令を理不尽であると感じることを法は排除しない。
    • フェミニズムはこの不当な感覚を〈私の身体は私のもの〉という主張によって、言語化してきたのである。「胎児は『自己の一部』だから殺してもよい」と主張しているわけではない。
  • まとめ
    • 井上は「権利主体」としての「自己」と「権利主体」としての「他者」という区分を用いてしか、道徳的問題を論じることができないと考えている。これは井上の責任ではなく従来の法哲学リベラリズムの概念の問題。
    • 加藤が打ち破ろうとしてきたのは、この「権利」のパラダイム
    • ここでみてとることができるのは、フェミニズムの言語に対するリベラリズムの言語の圧倒的な優位である。加藤はフェミニズムの「異議申し立て」を井上に理解してもらうため、井上の議論に内在的に――リベラリズムの言語にのっとって――リベラリズムを批判しようとした。しかし、その異議申し立ては井上には十分に聞き取られなかった。その意味で、この論争は単にすれ違っているというよりも、一方の声が「聞き取られなかった」論争なのである。
    • 本書の目的は、聞き取られなかったフェミニズムの異議申し立てを成功させること――聞いてもらうこと――にある。フェミニズムの主張する「自己決定権」とリベラリズムにおける「権利」とは異なること、そしてリベラリズムが中絶の自由を適切に擁護するためには、リベラリズムが前提としている諸概念が再定義される必要があること、と説得的に論証すること。これが本書の目的である。


加藤秀一、2001、「構築主義と身体の臨界」上野(編)『構築主義とは何か』(勁草書房)

  • 客体としての身体、観念としての身体、現実としての身体
  • 過程としての身体
  • 二つの本質主義とその批判
  • 身体の物質性、あるいは、身体は存在しない


加藤秀一、2001、「身体を所有しない奴隷――身体への自己決定権の擁護――」『思想』(No.922)

  • 奴隷は存在しない――行程の探照
  • 1 「私の身体は私のものである」――自己所有への二重の問い
    • 問いの背後
    • 〈私の身体〉は占有/所有を含意しない
  • 2 〈私の身体〉とは何か――〔存在と所有をめぐって〕
    • 三つの二重性
    • 私によって占有取得されない身体もなお〈私の身体〉である
    • 他人による占有・処分は〈私の身体〉を破壊する
  • 3 抵抗としての所有権/所有権への抵抗
    • 〈私〉を抹消する性暴力
    • 自己所有権から自己決定権へ
    • 身体を所有しない奴隷としての「女」
    • 歓待の掟――行程の接続


加藤秀一、1995、「〈性の商品化〉をめぐるノート」江原(編)『性の商品化―フェミニズムの主張2』(勁草書房)

  • 商品である性と商品でない性
  • 「よい性の商品化」論批判
  • 〈性の商品化〉とは何か
    • 〈性の商品化〉と「性の商品化」
    • 「性の商品化」の二つの次元
    • 性労働と家事労働
    • 資本制の市場と家父長制の市場
  • 結語 〈性の商品化〉の未来