「読む」という超越的カテゴリー
↑の議論の中休み。自己紹介がてらの独り言。↑の議論とはあまり関係がない。というかシステム論ともEMとも関係がない。自己紹介です。
(さっきかなり長文書いたんだけど、途中でブラウザがぶっ飛んでしまった)
本日のコメント欄でsepakさん曰く:
# sepak 『「いくら読んでも」って何をどれだけ読んだというのか君わ。』
まず「読む」という言葉でもって・誰が何を意味しているのか・そもそも「読む」という言葉になんらかの固定的意味が含まれているのか、わからないわけです。固定的な意味が含まれているとしても、それを理解したか/できるのかどうかぼくにはわからない。
毎日本を開く。そこに文字が印刷されていることがわかる。それが言葉であるということがわかる。言葉には意味があるらしいということがわかる。しかしどうやらそれだけではダメらしい。でもぼくにはそこから先のことはまったくわからない(「何言ってんだかわかんねー」とコメントで書いた)。
書かれたモノや配置されたモノに意味を見いだすことができるということはわかる。でもそれ以上のことはぼくにはまったくわからない。
意味を見いだすことができるようなモノがあったときに、後続してモノを配置してみて、怒られる時もあれば怒られない時もある、ということはわかる。でもその条件はわからない。怒られた時は頭にくる。それはわかる。でもぼくが頭にくるような怒り方をして、そのことによって何をしようとしているのかはわからない。他人のことだからね。
さっきコメント欄にsepakさんが
# sepak 『だから最低限EM界隈での懐疑論 vs 反懐疑論みたいな話を押さえてからにしようよ、と。「お勉強中」ならばさ。』
と書いていった。
「EM界隈での懐疑論 vs 反懐疑論みたいな話を押さえてから」という言葉で何を意味しようとしているのかは、わからない。それはいいとして、それでは 誰が「話を押さえて」いるのか・その誰かが「話を押さえて」いるという事態はどういったことなのか、まったくわからない。
ここで「押さえる」べき「話」をαとする。αがわかると、βがわかる、とする。こう仮定すると、βがわかるためにはαがわからないといけない、したがってαをわかるべきだ、という命題が成立する。が、それはβが「わかった」後に「わかる」ことであるような気がしてならない。つまり……ある種の錯視があるような……整理すると、
- βをわかっている、と主張するひとがいた
- じゃあαはわかってるのか、と問うてみる
- αはわからない、と答えた
- じゃあおまえはβを知らないはずだ、という評価が成り立つ
しかしここで問題になっているのはこの人物がβを「わかって」いるか否かではなく、βの同一性ではないか。この人物についてわれわれがわかるのは、この人物がαをわからないと「言っている」という事実だけであって、それ以外のことではない。同じ理屈で、αもβもわかっているという人物が、αもβもわかっているかどうかはわからない。この人物がαとβについての非常に説得的で納得のいく論文を書いたとしても、そこでわかるのは、その読者が説得された・納得したという感覚を持った、という(読者にとっての)事実だけである。
この文章をぼくはまじめに書いています。システム論ともEMとも関係がないけれども、自己語りががしてみたかった、というだけです。はてなダイアリーだけに。