バイト先からだらだらと放言してみる。

だめだ。最近気分が悪い。つねに吐き気がする。でもできることからなんとか応答可能性を探ってみる。

他方、MCDで謂う「メンバー」は、
単に、あるカテゴリーを「人」に適用するという事態を云々しているのではなくて↓
「あるカテゴリーが、それを含むカテゴリー集合collection-の-要素[=メンバー]である」こと
と、
「あるカテゴリーでカテゴリー化される【ひと】が、(その カテゴリー集合collection でカテゴリー化される)集団population-の-成員[=メンバー]である」こと
と、が重なったところに位置する概念。

それはわかる。わからないのはそいつでなにを議論しようとしているのかということ(あとやっぱり<赤ちゃん><お母さん><お父さん>がどーのこーの言われてもなんのことやらわかんない。なんでこれが「装置」なの?)なので、それは大先生読書会に期待します。

とはいえ

  • 24段落目はカテゴリー化装置だ!
    • 「成員カテゴリー化装置」とは限らないような議論(「意味形象」)をしているが、EMではどうなの?カテゴリーは「成員」に付与されるものとは限らないの?(EM厨)

と書いたのはルーマンとEMの「比較可能性」を探っているからではなく、ぼくがEMを読むというコストを支払う価値があるかどうかのガイダンスをして欲しかったからなので、EM者からみて「ルーマンわかってない、そうじゃないんだよ」といえるのか、そもそも水準の異なる話をしているのか(それはEM知らないぼくには判断できないことだから)を言ってもらえればうれしいだけなので。
ちなみに一文目の「24段落目はカテゴリー化装置だ!」というのは、その段落が「カテゴリー化装置としての機能を果たしている」という意味ではないです(そんなことまで敷衍しなきゃならないのか。非常に疲弊させられる)。
当然ながらその段落でしている議論はEMでいうところのMCDの議論に似ている、ということでもないです。たんに社会的に-言語的に-シンボリックにカテゴリー(みたいなもの)が発生する/可能になる条件を述べている段落だ、という意味です。

あと、

ただ他方、ある意味ではそれはかなり自明なことであるようにも思います。だって、(「カテゴリー一般」ではなく)「メンバーシップ」に関わるカテゴリーに焦点を合わせるということは──ルーマン側のジャーゴンでいえば──、社会次元に焦点を合わせることを意味するわけだから。これは「社会学者」として、当然まっさきに採ってよい道筋でしょう。そう考えればまた、「カテゴリー一般が扱えたほうが偉い」などとは簡単に言えない、ってことまでは簡単にいえると思いますがどうか。

「メンバーシップ」がヒトのことを指すのだとしたら、ぜんぜん自明じゃないと思います。椅子や便器のほうがも社会的だと思う。
ぼくはおしっこするけれど、ヒトじゃなくてもおしっこするでしょ。しかしおしっこするという単位性は便器への行為傾向性との関連で定まりかけるようなものなので、行為の単位性と、皿やテーブルや便器は同時に射程に入れなければ、カテゴリーという社会的/実在的/超越的なものについてなにも語ったことにならないと思う。
なにがいいたいかというと便器もヒトも等価に社会的だということ。です。