カテゴリーと/の超越性

第5章の読書会において:

  • 24段落目はカテゴリー化装置だ!
    • 「成員カテゴリー化装置」とは限らないような議論(「意味形象」)をしているが、EMではどうなの?カテゴリーは「成員」に付与されるものとは限らないの?(EM厨)

これに関して酒井さん曰く:

ルーマンの使う「成員」概念とエスノメソドロジー(の、特にMCDがらみ)で登場する「成員」概念は、基本的にほぼ関係のない言葉でございましょう。
ルーマンの謂う「成員」は、あくまで、(コミュニケーションシステムの一類型として捉えられた)「組織(というコミュニケーションシステム)」と関係づけられた概念。
他方、MCDで謂う「メンバー」は、
【略】
MCDを巡るEMの議論とルーマンの議論とを「比較」しようとするならば、

いや、ぼくが「比較」しようとしているのは、<EMいうところの「カテゴリー」>と<ルーマンいうところの「意味形象」Sinngebilde>です。EMでは《メンバーシップ・カテゴリー化・装置》という概念を使いますが、どうもmembershipという言葉はヒトに対して使用するものらしく、それよりはルーマンの:

あらゆる種類の社会的アイデンティティとシステムは、人格を含めて、社会的コミュニケーション過程でのみ、つまり所与のコミュニケーション可能性とりわけ言語的および非言語的シンボルという尺度に従ってのみ、構成されうる。
……意味形象が増殖しうるのは次のような場合、
すなわちコミュニケーションがますます一般的でそれゆえ特定化可能な(そのレレヴァンスにおいて限定されている)観点へと志向せしめられているような場合、
言語とそれの補足的制度とがこれらの観点へと向けて調整されているような場合、
そして大抵の状況に対して適合性をもつ組み合わせ*1の適切な選択が保障されているような場合である。(154頁)

という議論にのっかったほうが、ヨリひろい意味での「カテゴリー化」を扱えるのではないかと思ったわけです。
で、「そこんとこEMではどうなのよ?」と問うてみたわけです。*2

初めて見るようなテーブルを見たときでも、われわれは「あ、テーブルだ」とわかるわけでして。でーこれはGHミードいうところの「呼応answering」(=腰掛に腰掛けるという行為傾向の凝固物が腰掛*3)みたいなもので、ルーマンの「レレヴァンス」はそこまで射程に入れているだろうと。EMのMCDは装置内でのレリヴァンスなわけですよね。そりゃだめだろうと。



あとついでに「手続き」のハナシですが:

コミュニケーションの場面(における手続き)を、ルーマンがどのように記述したか、
について見てみないといけないでしょう。

──が、ルーマン理論の側で、これに相当する「特別な議論」は‥‥ 残念ながら私には、にわかには思いつきませぬ。

もしも「比較可能」な議論が存在しないとするならば、それは──「システム論」にとって──、実は非常にまずいことでありうる。なぜなら、その手続きを示すことは、コミュニケーションシステムが(ルーマンの謂う意味で)オートポイエティックであることを示すことと等価であるハズだから(言いかえると、システム・リファレンスを示すことと等価であるはずだから)。 逆に/だから、それが示せないということは「システム・リファレンスを示せない」ということを意味し、そして、「システム・リファレンスを示せない」議論が「システム論」を名乗る資格はないはずだから。

「手続き」概念自体が超越的カテゴリーであって、つまり「ほら、わたしはこうやって手続きを示していますよ」と言ったからといって「手続き」を示したことにはならず、「じゃあ、あんたがほんとうに『手続き』を示しているということを証明して見せろよ」ということになってしまい、以後無限後退ですわな。

「サックスの書いていることを読めば、大抵のヒトであれば理解できるし納得するはずだ」といってみても、それはたかだか統計学的規範にすぎない。「納得いかなきゃあんたヒトじゃねえ」で終わらせようという魂胆なのでしょう*4

システム・リファレンスについて。
mlsのMLで繰り返し述べたように、システムをリファーするのはコミュニケーション(ないしオペレーション)であって、観察者ではなく、つまりコミュニケーションが連鎖した時点ですでにシステムリファレンスは示されているというべきなのであり、「そのコミュニケーションはいかにしてシステムをリファーしたのか」を記述することは、「システムリファレンスを示す」という課題にとっては冗長である――オーダーが1水準違う――はずです。「別の課題」にとっては良いことかもしれませんが(この「別の課題」に取り組んでいるのがEMなのだろう、という予感はしているのですが、それをしてなんになるんだ、という問いにはまだ答えられないので、EM厨としてお勉強中、というわけです)。

*1:ここ、なんの「組み合わせ」なんでしょうねえ。「コミュニケーション」?「観点」?

*2:答えはどうだったんでしたっけ? 飲み会で聞いたから忘れちゃった。

*3:徳川直人、1993、「行為・時間・自己」『社会学評論』

*4:ぼくはヒトである必要性も必然性も感じていないしそもそもヒトになりたくないし。