形式と自己言及

# Britty 『le neccesit’e du cinema: ハリウッド文法に引きづられすぎでは?タルコフスキーも同じ枠組みで説明できます?』
# hidex7777 『タルコフスキーが必然的な印象を与えるか、ってことですか?』

タルコフスキーに限らず、多くの映画作家が映画形式に「対抗」する作品を作っていると思う。映画形式の偶然性を意識させるような、自己言及的な作品などがそうだと思う。映画形式を異化するとかなんとか。
しかしぼくの考えでは、作品の内容が自己言及的であるか否かにかかわらず、あらゆる映画は自己言及的だと思う。これは「映画」のぶぶんをXにして、どんな芸術形式を入れてもいえることだけれど。
するとどうなるかというと、「映画」の形式性のミニマムが抽出されるという現象がおこります。

  • 映画館で観る
    • ということは、身体を包まれ、すべての感覚を(部分的にであれ)拘束される−−主に視覚、場合によっては聴覚、イスがお尻に触れる触覚、前の席の人の体臭を感じる嗅覚(匂い付きの映画が池袋で観られるけれど)、ポップコーンやウーロン茶の味覚、、、
  • 継時的である(内容がではなく形式が)

あたりが映画形式のミニマムだと思う。すると、だれがどんな「異化効果」に成功したとしても、このミニマムは破られないことになる。そして、後続するすべての映画が、このミニマムを受け継ぐことになる。かくして、映画形式は自己維持することになる。
ここでぼくは絵本との比較として映画を持ち出しているけれど、「映画100選」だったら、ゴダールの「ピエロ」だとか、「汚れた血」だとか、ケン・ローチ「ケス」だとか、ウォーホルだとか、「どの作品にしようかな」というレベルで迷うことができるのですが、「絵本100選」だと、「はて、絵本ってなんだろう?」というレベルで迷う、あるいはそれに先行して、「【子どものころ】何を読んだだろう?」と考えてしまう、などといったことが生じる。
そのへんのところが昨日のエントリのポイントではないかなと思う。