演劇性

昨日のエントリでミニマリズムを批判したのをクレメント・グリーンバーグとしましたが、これはマイケル・フリードの明らかな誤りでした。やっぱり。

ついでに、フリード論文をぱらぱらめくっていたら興味深い記述をみつけたので転載。
フリードはミニマリズム(彼はリテラリズムとよぶのを好む)をシアトリカル(演劇的)であるとして批判するのですが、その文脈で。

……すなわち演劇と演劇性は、今日、モダニズムの絵画と(もしくはモダニズムの絵画・彫刻と)だけではなく、芸術それ自体と−−そして様々な芸術が、モダニズム的なものとして記述され得る限りにおいて、モダニズムの感性それ自体と反目しあっている、……

モダニズムの感性が最も高揚しているとみなしているもの、また、その感性が我々の時代に折り紙付きのハイ・アートとして経験しているもの、それが演劇の克服なのである。しかしながらまさにその本性によって完全に演劇を免れている芸術がひとつある−−映画である。このことは、絵画や彫刻や音楽や詩は、最も成功したもの以外はすべて、モダニズムの感性には受け入れられないのに、なぜ一般に映画はあからさまにぞっとするようなものも含めて受け入れられているのか、を説明するのを助ける。映画は演劇を免れている−−いわば自動的に−−のであるから、それは演劇や演劇性と反目し合っている諸々の感性に、好都合のまた夢中になるような逃避を供給するのである。同時にその逃避の自動的で保証付きの性格−−もっと正確には、供給されるものが演劇からの逃避であって演劇の克服ではない、つまり沈潜absorptionであって確信ではないという事実−−が意味しているのは、たとえ極めて実験的なものであってもモダニズムの芸術ではない、ということなのである。