絵本の形式

メモ。

昨日書いたように、絵本は児童文学のサブジャンルではない。重なっている部分もある、ということである。われわれは容易に「大人の絵本」を想像できる。『〜を探して』とか『エミリー』とか、あとは『チーズは』などは日本では絵本形式で売られたし、『シッタカブッダ』なども絵本形式をとっている。

いま「絵本形式」という言葉を使ったが絵本はメディアではなく形式である。メディアとしては書籍(印刷メディア)を使っている。しかしその形式も、音楽や詩のような必然性を感じさせず、偶然的な形式という印象を与える。絵に文がついていればよいのだが、その文は独特なまでに単純化されている必要があり、場合によっては詩の形式を用いている。絵のほうはさまざまであり、非常に複雑なものもあり、逆に単純な線のみで描かれている場合もある。

物語形式は採用されていることも、採用されていないこともある。いずれにせよ物語の複雑さは追求することがあらかじめ放棄されており、表現は詩に近づくことが不可避になっている。ページ数も絵本に適切な量があり、少ないページ数で完結するものほど美しい印象を与える。

結論すれば、本の形式・自由な絵の形式・ミニマルな文(詩に近似)・ミニマルなページ数、が絵本形式の定義のミニマムである。このように形式が複合的であると、それが非常に偶然的なものであるという印象を与える。俳句や短歌が独特であるのと同様に、というよりそれ以上に独特で偶然的である。映画の下品なまでに必然的な印象は、その「なんでもあり」性に依存している。

しかしいずれにせよ、文学のサブジャンルであるとはいうことができる。さまざまな制約の中で、いかにして大きな贈与を読者に与えるか、ということに作家は賭ける。

というわけで、絵本は文学であって児童文学ではない。それではなぜわれわれは絵本というと子ども期をまっさきに思い浮かべるのであろうか? 

絵本は時間系列(変化と持続)を用いた芸術形式である。その世界が視界いっぱいに広がるという点は映画に似ている。映画の身体拘束性はしばしば胎内にたとえられる。それは胎内での原印象を模倣する。時間的な印象の変化とその出来事性の持続が、視界全体の中で展開されるという形式の性質が、「子ども期」と観念連合しているのかもしれない。

クレメント・グリーンバーグは、絵画を、その二次元性において視覚に立ち現れる純粋な現前性として定義し、ミニマリズムのような鑑賞者の身体空間をまきこむオブジェの形式を批判した(グリーンバーグではないかもしれない。あくまでメモなので)。

その意味では絵本は、詩というもっとも純粋な芸術形式に近いものでありながらも、オブジェに近い形式である。

さらにいえば、絵本は必ずしも読まれることを目的としていない。海外絵本というジャンルが書店においては確立しており、外国語で書かれた(つまり読めない/読めなくてもよい)絵本は、文字通りオブジェとして、生活世界に持ち込まれる。ここで芸術作品と生活の接合というきわめて20世紀的な現象を観察できる。これは重要な点だ。美術館(これも形式だ)は馴れ親しまれているが、芸術作品は馴れ親しまれていない。われわれは美術館という形式が差し出すシステムによって芸術を芸術として鑑賞することができ、馴れ親しまれていない芸術作品の馴れ親しみのなさを芸術性という形式において感受することができる。絵本という形式は馴れ親しまれていて生活世界の中にあるが、まさにその場で絵本の作品性は感受される。この性質は、漫画やテレビよりは小説に近く、同時にインテリアや家具や壁に飾る絵画・ポップアートに近い。

絵本とは、かくも偶然的な形式である。ポイントは、「子ども期との観念連合」「生活世界に持ち込まれる詩的なオブジェ」あたりにあるのではないかと思う。