自己責任

以前「この件に関して書くのは最初で最後」http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040414#p3と言いましたが、言説状況が進展し、語る材料が整い始めたので、現在考えていることを書きます。

  • 前回も述べたように、現在日本は軍隊を他国に派兵・占領しており(=リスクテイク)、さまざまな危険の可能性がありうる、ということが予測可能である(あった)。
  • 人質になった日本人達にはイラクへの入国禁止という事前通知がなされていたが、これは「人質になるからやめなさい」という通知ではなく、危険・紛争地域を公報・広報するという当然の措置であった(危険の予測可能性の範囲内での国家的な義務を果たしただけ)。
  • しかし、いかなる場合においても、誰が・どこへ行くか、という移動する自由をあらゆる人格は保障されている。たとえば「立入禁止」とされている領域であっても、なんぴともそこへ立ち入る自由を侵されてはならない。「立入禁止」命令の違反が違法となるのは、かかる命令の違反によって損害をこうむる他の人格の権利が同時に保障されているからである。
  • また、仮にそのような自由が保障されていないとしても(そのような社会状態を仮定してみても)、人は移動可能であるから、人はいかなる領域に入っていくことも可能であり、したがって予測可能である。
  • 軍隊を他国に派遣・占領する国は、かかる可能性の範囲をあらかじめ予測し、それに対応する官僚システムを整備していなければならない。
  • とはいえ、日本は、さまざまな事態に直面することで蓄積される予測ノウハウが未発達であるため、かかる官僚システムが未整備であった。今回の一件は、「事態への直面」の一ケースとして、官僚システムにとっての情報価値の高いケースであった。
  • 官僚システムの未整備が、経験不足を理由に免責されるわけではないが、未整備であること自体の了解を、広報を通じて、得ていなければならない。
  • 「自己責任」の流行について。
  • 【1】外出することは危険に満ちている。事故や、風邪をひく危険をさしひいても利益が得られるということを信用confidenceして、われわれは外出をする。
    • 信用は裏切られることがあり、そのとき医療システムを信頼trustすることになるが、このような信頼を担保として、「外出した者が悪い」「外出などすべきではない」「医療費を全額負担すべきだ」という帰責の回避が可能となっている(なにしろ信頼されているのは医療システムなのだから、医療ミスがあった場合、医療システムに帰責が行われる)。
  • 【2】スキーのようなレジャーは危険に満ちている。「1992年のスイスにおいて、500万人のスキーヤーのうち11人が死亡し、3%のスキーヤーが怪我を負った」*1。われわれはレジャーをリスクとしながら、効用を得ている。
    • しかしあわれな事故死を教訓に、スキーが禁止されることはない。ノウハウの蓄積(死亡や怪我の納得可能性を担保する「物語資源」の蓄積、事故が起きた場合の処置ノウハウの蓄積、事故を未然に防ぐノウハウが広報されていることの了解を得るノウハウの蓄積、etc.)によって事態の複雑性が縮減されるからである。
  • 【3】ドラッグ・カルチャーが発達していない文化圏では、レジャー・ドラッグをリスクとして認識する資源に欠ける(リスクではなく危険として認識されてしまう)。
    • ドラッグによる事故や死亡は、事態の複雑性縮減が困難となり、「ドラッグの禁止」を導く。たとえばスキーで子どもを失った親は悲しみを納得させる資源を調達できるが、ドラッグで子どもを失った親は資源調達に困難を感じ、ドラッグに帰責する。
      • だが「ドラッグの禁止」によって、さまざまなノウハウ蓄積自体が困難となる。
  • 以上から、システムにおけるノウハウ蓄積が帰責の負担免除を左右する。
  • 軍備をすすめる政治システムは、官僚システムの整備(ノウハウ蓄積)を目標とする。したがって未発達なシステムにとっては負荷が大きくても、システムへの帰責を導くことが有益である。
  • 「自己責任」を保守系論壇が主張するのは、かかる蓄積が無いことによって生じた複雑性を、心的システムにおいて縮減する作法である。
  • 「自己責任」を政府が主張するのは、この複雑性を、官僚/政治システムにおいて縮減する作法である。
  • つまりこの二つの「自己責任論」は区別されなければならない。
  • だが、縮減メカニズムにおいて、これらは同型である。

以上。

*1:Nicholas Sanders,"Ecstacy and the Dance Culture"