カントの場合

*『カント事典』から採取


人格[Person]

形而上学の周辺的な一用語にすぎなかった人格の概念を、一挙に、倫理学だけでなく哲学一般の最主要概念にまで高めたのが、カントであった。

直接の語源であるラテン語のペルソナ(persona)はキリスト教スコラ神学の用語で、三位一体論に関わるこの用法が18世紀まで支配的であった。転機をもたらしたのがホッブズで、『リヴァイアサン』などの著作において、ローマ法の用法をも取り込みながら、人格を基体や実体から峻別して、俳優の役割のように交代可能なものとした。神は父、子、聖霊という三つの役割を演ずるわけである。ホッブズはこの役割としての人格概念を法哲学にも応用して、帰責能力の主体とした。その後、ロックが自己意識の主体である心理学的人格概念を、ライプニッツが霊魂と肉体の統一体である神学的人格概念を展開した。

カントがそれまでの諸見解を集大成した。特に『人倫の形而上学の基礎づけ』で、理性的存在者としての人格を、単に手段としての相対的価値しかもたない「物件(Sache)」から区別して、「目的自体」として「尊厳(Wuerde)」であり絶対的価値をもつとしたことは、哲学史に決定的な影響を与えた。また『実践理性批判』において、歴史上初めて、人格と人格性を概念的にはっきりと区別した。人格が、「みずからの人格性に服従するものとして、叡智界と感性界の二つの世界にまたがる住民」であるのに対して、人格性は理念であって、「自然の全メカニズムから独立した自由な自己立法者」だと定義される。さらに『人倫の形而上学』の法論では、人格が「自分の行為に責任を負うことのできる主体」として定義される一方で、人格性は、ロック流の心理学的人格性とホッブズ流の道徳的人格性に二分される。
(平田俊博)


人格性[Persoenlichkeit; Personalitaet]

神学的性格が強く、それまで混同されがちだった人格と人格性の両語を、初めて概念的に峻別し、人格を実在するものとして、また人格性を理念として明示することで、カントは人格性という語を倫理学の中心概念にまで高めた。

元来はキリスト教神学の三位一体論の用語であった。ペルソナの抽象概念として中世に新造されたラテン語personalitasが語源である。ロックが人格の同一性の根拠を自己意識に置いてから、人格性は、意識を通じて過去の諸行為の当事者となり、それらの責任を帰せられることとなった。またライプニッツは霊魂の人格性を霊魂の不死性と解釈して、生前の行為の死後における評価可能にし、人格性の概念に道徳的性質を与えた。

カントは『純粋理性批判』の「誤謬推理論」で、霊魂が肉体から分離して死後も実在するという、ライプニッツ/ヴォルフ学派の合理的心理学における実体的人格性(Personalitaet)を、独断的で超越的な概念だとして斥けた。その代わりに、人格性(Persoenlichkeit)の超越論的概念を、「統覚による一貫した結合が存する主観の統一」と新しく定義して、現実存在は証明されないが実践的使用のためには必要にして十分だとした。『実践理性批判』では、叡智界と感性界の両世界に二またをかける人格と、「自然の全メカニズムから独立した自由な自己立法者」であって叡知的な理念にとどまる人格性とを峻別した。また、「理性的存在者の無限に持続する実在と人格性」を「霊魂の不死性」と呼んで、道徳的完成への永遠の努力のために不可欠だとして「要請」した。『人倫の形而上学』では人格性の概念を公然と二分した。一方は「道徳的人格性」で、『実践理性批判』を承けたものであり、「道徳的法則の下にある理性的存在者の自由」と、他方は「心理学的人格性」で、『純粋理性批判』を承けたものであり、「自分の現存在のさまざまな状態において自分自身の同一性を意識する能力」と定義された。また別に『基礎づけ』を承けて、人格が、帰責能力の主体として定義された。さらに『単なる理性の限界内の宗教』においてカントは、三位一体論に起源する人格性の概念を近代の三権分立論から説明した。父なる神の人格性は道徳的法則の立法者に、道徳的法則それ自体である聖霊(ロゴス)の人格性は司法者に、道徳的法則の実践者としてのイエスの人格性は行政者に比定された。神人イエスにあって初めて人格性は、人間の原型としての人間性と一致するわけである。カントが『実践理性批判』において、人格のうちなる人間性を「神聖な」と形容する所以でもある。

カントによって確立された近代的人格性の概念は、その後、ドイツ観念論において理性的側面が強調されるあまり、超個性的で形式的なものとして展開された。それとは逆に、ゲーテジンメルは個性的で具体的な人格性を追及し、20世紀に至ってシェーラーの現象学的人格性(Personalitaet)の概念へと結実した。
(平田俊博)


人格の同一性[persoenliche Identitaet]

異なった時間と空間を通しての人格(Person)の同一性を問うもので、デカルト心身二元論と関連して、ロックが明確な形で定式化した問題である[『人間知性論』2巻27章]。ロックは、生物学的な存在としてのヒトから区別された意味での人格を、異なった時間と場所で、同一の思惟するものとして自分自身を考えることのできる、思惟する知性的な存在者としたうえで、自分を自分と呼ぶ意識(記憶)から、人格の同一性を論じた。その後この問題は、リードやヒュームらに受け継がれ、今日では脳移植の問題まで含めて議論されている。

カントは人格の同一性を魂(Seele)の同一性として論ずるが、この問題は『純粋理性批判』の「純粋理性の誤謬推理について」のところで、思惟する私(魂)の実体性(持続性)の問題と関連して議論されている。その内容は、それまでの合理的心理学における魂の実体性からする人格の同一性の主張に対して、それを純粋理性の誤謬推理として批判することである。カントは、「異なる時間における数的な自己同一性を意識しているところのものは、そのかぎり、人格である」[A 361]、「その状態のあらゆる変易のなかにあって、思惟する存在者として、主観自身の実体としての同一性」[B 408]と、人格の同一性を捉える。しかしカントによればこの人格の同一性は、思惟する私(魂)はつねに同一であるという意識からは推論されないとする。つまり人格の同一性は、多様な表象のうちにあっても、思惟する存在者としての主観がもっている、自分自身はつねに同一であるという自己同一性の意識からは証明されるものではないというのである。異なる時間において、数のうえからは同一人であるという意味での数的な自己同一性を意識しているのは、時間を内官の形式とし、自分を意識しているすべての時間において、自分を持続する同一の自己と必然的に判断する自己(私)のことである。しかしこの「私」も他者からみれば、他者は、私の時間ではなく、その人の時間において見ているのであるから、「私」の自己の客観的な持続性を推論することはできないことになる。したがってこうした自己同一性の意識からは、客観的な形での人格の同一性は得られないのである。そこにおける自己同一性の意識は、あくまで主観的な同一性であり、したがって自己の同一性を否定する変化が主観にも起こりうるのであり、そこに得られるのは、変化した主観にも与えられた同一の名称、つまり論理的同一性でしかないことになる。

このようにしてカントは、客観的な実在としての人格の同一性を否定するのであるが、カントは、同書第一版の「人格性の誤謬推理」に付した有名な脚注において、弾力性のある球がその状態を第二の球に、次いで第二の球が第三の球に伝えることとの類比において、実体がその状態を、状態の意識も含めて、次々と第二、第三の実体に伝達し、最後の実体においてそれ以前の変化した状態のすべてが意識されていても、最後の実体はこれらすべての状態を通じて同一の人格であったとはいえないであろうと述べている。このカントの立場は、人格の同一性の議論において主流をなす、記憶の連続性から人格の同一性を認めようとする理論に対する反論となっている。
(寺中平治)