・適切な(ただし留保つき)推論
 では、「私」「我」というゼマンティクへと飛躍を誘う論理とはいかなるものか?ここでは大庭健『私はどうして私なのか』を参照してみる。

「私」という語を主語として、あるものが見えている・聞こえている・匂う・感じられる、といった現在の意識的な心理現象を表す述語を用いるときには、指し間違いは起こりえない。「私には、何々が見える」と語ったとき、「私」にかんして指し間違いはありえない。目下の風景にかんして「私には、何々がかすんで見える」と語っていながら、何々がかすんで見えているのは、実は自分以外の他人である、ということは考えられない。語られている内容が、現在の心理現象であるかぎり、「私」という語が、自分以外の別人を指示してしまうことはない。〔…〕
このように指標語「私」は、意識的な心理現象を表す述語〔…〕とともに、現在形で用いられているかぎり、指し間違いへの免疫を持っている。指し間違いへの免疫は、指標語「私」の意義(センス)のもっとも重要な特徴である。(大庭 2003:106-7)

 この指標語の機能分析が、そのまま「私」ゼマンティクへの飛躍を「説明」するといえるかどうかは留保が必要だろう。だが、心的システムが文法の論理構造に拘束されることによって社会システムとのカップリングを果たすうえでのひとつの要件を「記述」しているといえるだろう。

 さて、先にわれわれは「事象の人格帰属に論理的に先行するものとして、自己の心的事象を自己の人格に帰属するというモデルが考えられ、このモデルが社会的に投射されているのだという仮説」を呈示した。心的システムにとって「私」「我」というゼマンティクは、指し間違いへの免疫という機能を持っているがゆえに心的システムの作動にとって主導的な役割を果たしえた。この機能が社会システムに投射されるとき、「人格」というゼマンティクがその機能を作動し始めるといってよいだろう。次にあげるのは、大庭が「私」について述べている箇所であるが、そのまま社会学的な「人格」ゼマンティクの説明として採用できる。

さて、首を振るなり、言葉を発するなりといった身体の動作において、挨拶なり、提案なりといった特定の行為が遂行される。その行為にかんして「なぜ?」という問が発せられるとき、この「なぜ?」という問は(酩酊状態とか催眠状態などを別とすれば)、行為の理由を問うているのであって、しゃっくりの原因を問うような仕方で、動作の原因を問うているのではない。〔…〕

行為の理由とは、それにもとづいて行為を選択する、という規範的な推論の論拠でもある。ある欲求が生じ、ある考えが浮かんだとき、その欲求・考えを論拠として、他のようにでなく・このように行為することを選択する。こうしたときにはじめて、その欲求・考えは、動作を引き起こした原因とは区別される、行為の理由となる。カエルの〔餌を食べるような〕行動は、因果関係の必然的な帰結である。〔…しかし〕私たちの行為は、理由にもとづいて選択的に遂行されている。〔…〕こうした理由についての問答を可能にしているのが、「私が思うに」という、推論を表す思考形式なのである。(前掲:196-7)

 行為の理由を問うことは、因果関係を問うこととは違うと大庭は述べている。しかし、原因でなく理由を問うことができるのは、理由の所在が神経系や免疫系などではなく人格にあると想定されているからである。この「飛躍」は、行為の帰属過程にもちいられる人格ゼマンティクの機能が可能にしているといえる。