・適切な記述
 ここで、本研究にとって示唆的だと思われる記述法の一事例をあげてみたい。

心がたくさんの小さなプロセスからできているという考え方を、《心の社会》と呼ぶことにする。また、心を構成する小さなプロセス一つひとつを、エージェントと呼ぶことにする。心のエージェントたちは、一つひとつをとってみれば、心とか思考をまったく必要としないような簡単なことしかできない。それなのに、こうしたエージェントたちがある特別な方法でいろいろな社会を構成すると、本当に知能にまで到達することができるのである。〔…〕
つかむことのエージェントたちはカップを持っていたい。
平衡を取ることのエージェントたちは紅茶をこぼさないようにしたい。
のどがかわいていることのエージェントたちは紅茶を飲ませたい。
動かすことのエージェントたちは口もとにカップを持っていきたい。
(Minsky 1986=1990:2-8)

 これはマーヴィン・ミンスキー『心の社会』における記述であるが、心を構成するプロセスが、いかなる超越論的な実体によっても統御されたり纏め上げられたりすることを前提とすることなく記述できている点において優れている。

 こういった想定においてはじめて、われわれが記述を試みようとしている「心的システムにおける人格の構築」の地平が開ける。当然ながらわれわれは、いわゆるデカルト・テーゼ《我思う、ゆえに我あり》に対し、《我思う、ゆえに思いあり》を対抗テーゼとしてかかげたいわけであるが、これはつまり、心的事象が生じたからといって、それを「我」のようなゼマンティクに帰属する作法はきわめて前提に満ちたものであって、一種の飛躍であることを示唆したいのである*1

デカルトの主張は、心的事象が与えられるがゆえに、仮にそれが幻覚・幻聴の類いであって内容を懐疑できるとしても、それが与えられる意識作用の主体は疑いなく存在している、というものだ。だが、むしろそのような意識作用の主体は、心的事象という述語の後から論理文法的に構成される仮象としての主語である。それはカントが超越論的統覚Xとよんだものに近いが*2、心の社会という考えはこれをうまく記述している。たしかに心的事象が生じたとき、その事象以外に、その事象に対する意識も同時に生じる。この自己に対する意識をわれわれは「自己」「私」として超越論的な位置に設定してしまうのであるが、あくまでそれは仮想であり、Xである。ミンスキーの言葉でいえば、あるエージェントの活動を観察する別のエージェントがいたとしても、そのエージェント自体が別のエージェントによる観察にさらされうるのであり、メタ・レベルに位置しているわけではない(自己を意識している自己意識を意識している意識を意識している意識……と、無限に続けてみても、これらはメタ・レベルに上昇しているのではなく、いわば心的な平面上にエージェントたちがひしめき合っているにすぎない)。

*1:「主体の脱中心化」プロジェクトのかつての仮想的はデカルトであったが、近年ではむしろデカルトやカントこそが主体の脱中心化の先鞭をつけた思想家であるという「読み」が多くなされている。Zupancic(2000=2003)、斎藤慶典(2003)など。

*2:あるいはラカンによって抹消線をひかれたSに近い。斎藤環(2002)の以下の発言は、本研究が、統合失調症や解離性人格障害についていかなる記述力をもちうるかを示唆するものである。▼超越論性を維持するためのファルスとは「ゼロ記号」だ。いかなる実体も持ち得ず、いかなる存在も主張できないがための特権的記号、特権的位置なのだ。それはわれわれの「意識」における仮想的な中心、すなわち「(抹消された)主体」に対応する。この機能はもちろん、ファルスの単独性ゆえに成立するものであり、それはゼロと同じ機能を持つ数字がゼロ以外に存在しないことに対応している。複数に、つまり可算的になった瞬間に、ファルスは実体化する。そのとき超越論性は単なる超越性に変質し、体系はすぐさまスタティックなものとなってしまうだろう。そこではもはや、問に対する回答の複数性など、とうてい許される余地はないのだ。▼なぜそのように言いうるか。一つは臨床的な根拠からだ。分裂病患者は、しばしばこうした「複数の超越論性」を生きるように見えることがある。それは「妄想」と「日常的現実」のダブルスタンダード、すなわち二重見当識において顕著になる。そこでは二つの超越論的視点が葛藤を伴うことなく成立している。そして、こうした二重性こそが、反駁不可能な「妄想」という「解の単一性」をもたらしているのだ。▼分裂病においては、不断に自我が他者性を分泌し続ける。神経症における単一の超越論的な構造は、自我同一性のゆらぎや欲望の対象の無際限性を安定的に可能にする、すぐれてダイナミックな構造だ。その構造が破綻した状況、すなわち「象徴界の機能不全」こそが分裂病的事態であるが、その際自己は解体の危機にさらされる。それはあきらかに、激しい恐怖をともなう体験だ。そして、それを辛うじて統合するための弥縫策として選択されるのが「幻覚」であり「妄想」であるとされる。もちろんこういった目的論的な記述は誤りを含んでいるが、そうした症状が出ることで、患者が一種の安定にいたることは臨床的事実なのだ。▼中井久夫氏も指摘するように、分裂病患者には「単一の人格であり続けよう」という、狂おしいまでの努力がかいま見える。つまり、複数の超越論性がありうるとして、それがこのような病理的事態をまずもたらし、さらにはそれが「単一の人格」「単一の妄想」といった貧しい解しかもたらさないとすれば。(431-3)