・不適切な問い

浅野智彦『自己への物語論的接近』の第五章では、物語論の立場からの、構築主義による「自己」記述に対する批判が展開されているが、そこには記述の不適切さから生じる問いの不適切さといったものが見て取れる。同書の冒頭近く、次のように述べられている。《注意してほしいのだが、まず「私」がいて、ついでそれについて私が語るというのではない。そうではなく、自分自身について語るという営みを通してはじめて「私」が産み出されてくるのである》(浅野 2001:6)。しかしこの正しいテーゼは、本書を通して一貫されない。〈物語論vs.構築主義〉という構図を描いて物語論を補強する過程で、構築主義の《奇妙さのひとつめの側面は、「自己」を構成しているのは誰であるのかという点に関わっている》(前掲:194)と述べられる。このような疑問は先のテーゼを踏まえるときわめて奇妙である。上記のテーゼによれば、「語り」以前の「誰か」などいるわけがないからだ。ところが浅野はこの疑問に固執する。

語りが自分自身についてのものである以上、自分が何者であるのかについてすでに何らかの了解をもっている「自己」が語っているのだと答えるほかあるまい。〔…〕<自己が自己自身について語ることによって自己を構成する>というようになるはずである。(前掲:195)

この浅野の記述の奇妙な一貫性のなさに対する筆者の疑問に対し、先日の(2003年2月7日)書評セッションにおいて、浅野氏からは「私の立場は一貫している。自己が構築されているという構築主義の主張は、『では誰が構築しているのか』という点においてその一貫性が破綻するのではないか、との批判を行っただけだ」との回答をいただいた。だが、浅野の立場が一貫しているとすれば、その問いの立て方に不適切な点があるのだといえるだろう。なぜ浅野は「語り」が「誰か」(「何か」)によってなされるものだと何の留保もなく前提しているのだろうか?ここでも論理文法によって推論が引きずられている痕跡をみることができるだろう。