2.心的システムと人格

 「彼は楽しいから笑ったのだろう」「彼女は鬱病だから何事にも悲観的なのだろう」「被疑者は殺さない選択もできたはずだが自己本位的な利害関心から殺す選択をしたのだ」といったかたちで、事象の因果帰属が人格に対して行われている。しかし、われわれが人格帰属を行う前提条件はなんだろうか?つまりなぜわれわれは人格への帰属という選択肢を選択しているのか?ここではさしあたって、自己への人格帰属が他者への人格帰属に投射されるという仮説のもとに考察を進めたい。つまり、事象の人格帰属に論理的に先行するものとして、自己の心的事象を自己の人格に帰属するというモデルが考えられ、このモデルが社会的に投射されているのだという仮説である。

 こういったモデルを観察して記述することは、極めて難しいことである。なぜならこのモデルは文法の論理構造そのものであり、その記述自体、文法を無視したものになりうるはずもないからだ(この記述は私がしたものであり、この言葉は私によって発せられたものであり、あなたが聞いているのだ――といったことを前提にして記述を進めなければならない)。したがって、記述の不適切さ、といった問題がここでとりあげられなければならない。この帰属モデルをめぐっては、デカルト以来の多くの議論の蓄積があるが、それらのうち近年のものから、不適切な事例と適切な事例とをそれぞれとりあげてみよう。

 今後すすめられる本研究のプロジェクトに先立って、心的システムにおける「超越論的統覚」ゼマンティクの機能を考察しておきたい。心的システムとは、さしあたって心的事象が関係しあっているそのまとまりと定義しておけばよい。以下は、心的システムをめぐってなされた記述の不適切さの例である。

・不適切な記述
 まず、橋爪大三郎『「心」はあるのか』に表現される、典型的な誤謬をみよう。

「心」とは何かというと、他者が存在して、私と同じように精神活動を行っているという確信なのです。あくまで確信ですから、証明することはできない。他人の頭の中を覗くわけにはいきませんから、行動しかわからない。こう話しをした、こういう目つきをした、こんな状況であんなことをした、ということがわかるだけで、他人の「心」が直接私にわかるということはありません。それは、私の「心」が私に対して直接に開かれているという状況とは違います。〔強調は引用者。以下同様〕(橋爪 2003:38)

この記述を一見してわかる通り、橋爪は「心」の「開け」が「私」という帰属点に向かって(対して)いる、ということをあらかじめ前提している。
また、別の箇所では、明らかに「言語派」から逸脱し、現象学的な記述手法に引きずられた形跡が見られる。

他者の人格は名前によって輪郭が明らかになりますが、自分の人格は、自分に対してそうやって明らかになるわけではない。自分は、名付けようもない唯一の存在として、自分の経験する世界の全体と重なっています。(前掲:126-7)

このような記述は伝統的な現象学の立場からの記述には多くみられる典型的なものだが、橋爪の場合は、「言語派」の推論過程の背後にこの超越論的「自分」といったものが密輸入され、結果的に言語派的記述には失敗していると言わざるをえない*1

*1:とはいえ現象学的な方向性のすべてが誤謬であるわけではない。近年の優れた考察として斎藤慶典(2002)を参照せよ。《そして「私」とは、(…)「不在における現前」の能力である「想像力」がそこに根を下ろし、「現象すること」がそこにおいて可能になる場所のことである。これはすなわち、想像力とは私の能力のことではないということである。なぜなら、想像力という「不在における現前」の能力が根づくその場所においてはじめて、「私」という自己同一的なものがみずからに対して現象することが可能となったからである。(…)この意味でいわば想像力の方が私を所有しているのである》(173)。