レジュメ

自分がやってる「人格論」のためのノートとして、1年前に書いたレジュメを晒します。

  1. 多くの目玉に晒した方がうまくいく
  2. 「博士課程」とかいってえらそーにしてる奴の思索プロセスをオープンにしたほうが教育上よろしいと考える

というポリシーのもとに進めます。

ではいきます。

いきなりですが、「人格ゼマンティク」というのはやめといたほうがいいかも、です。たしかに「特殊近代的」観念(概念)ではあるのですが??したがって「人格」概念を歴史社会学的に検討することに意義はあると考えますが??そーいう議論を自分はやってないだろうな、とも思いますので、別のタームを考えた方がいいかなーと思っております。

1.人格ゼマンティクと帰属過程

本研究では、「人格」person概念を、ルーマンのいうひとつのゼマンティク*1としてとらえ、その社会的機能を分析することを目的としたい。本研究はいわゆる「言語派」の立場ではなく、いわば「意味派」とでもいうべき立場をとっている。人格概念をめぐって行われる社会的コミュニケーションは(「心」、「自己」、各種指示代名詞、といった)言語はもちろんのこと、様々な意味的なパフォーマンスを伴っていると考えられるからである。

「人格」が哲学・倫理学における理論的な概念として定着したのはLocke(1694=1980)*2による定義以降である*3。人格は法廷用語として論じられてきたが、これは人格に帰責される「行為」が、因果性を区別する際のメルクマールのひとつであったことを表している。たとえば「右手をあげる」という動作において、因果系列は〈一定の筋肉の収縮?電気的な神経伝導?化学変化?刺激……〉という原因方向への無限遡行が可能である。カントの第三アンチノミーで論じられたように、あらゆる原因はそれに先立つ原因を原因としている。それに対して、われわれが「右手をあげる」行為をおこなったばあい、その「第一の原因」はわれわれが右手をあげたという動作にあるのであり、その原因を遡ろうとしてもそれは右手をあげた私にあるとしかいえない。因果性のこの二系列は伝統的に区別されてきた。後者の原因遡行は人格において区切られ、無限遡行することがない。黒田(1992:67)の言葉でいえば、≪「行為の因果連関」と「出来事の因果連鎖」をはっきり区別すべきだ≫ということになる。行為論は伝統的に反因果説を基調としてきている(社会学においてはウェーバーの理解社会学)が、黒田の因果説への回帰も、この区別を共有しているのでわれわれの議論にはさしさわりがない 。

社会心理学には、Heider(1958)以降の帰属過程研究の蓄積があるが、帰属過程とは生起した事象に対して因果的な解釈を行う過程である。たとえば「川の流れが急だから、彼はボートを漕ぐのに多大な努力を要した」、「雲行きが怪しいから、私は傘を持って出かけた」などと、われわれは日常的に語ることができるし、それらを納得可能なものとして理解している。

意図のような人称的因果性personal causationの帰属を原因帰属という。人称的な帰属に限らず、(原因)帰属は環境に対しても行われるが、これらはすべて、社会的世界の理解と予期の安定化に貢献している。原因帰属において、行為者の行動の原因を能力や性格のような内的要因に帰属することを内的帰属といい、状況・環境のような外的要因に帰属することを外的帰属というが、いずれの帰属も、安定した構造を利用可能になる観察者の負担免除に貢献することになる(蘭・外山編 1991、坂西 1998)。

帰属(帰責)という社会的過程がありうるためには、人格という意味が社会的にアクセス可能なものとして実在しなければならない。本研究は、人格とか心とかいった言葉でわれわれが意味するところのものについて考えるのに、行動主義にも心理主義にも荷担することがない。たとえばジェフ・クルターの想定は本研究の重要な前提である。「心」なるものは、秘められた・私的な実体などではなく、あくまでも《心にかかわるふるまいの諸概念・諸述語》(Coulter 1979=1991:11)をめぐって行われる言語ゲームの中にしか存在しないものである。《他の行為と同様に、言語行為は、観察者により、しかるべき人に帰属される。そのさい、その人の心や神経の状態がどうであるかということは、一切無関係である。また、この帰属には、様々な態度決定やあてつけや責任帰属がともなう》(前掲:31)*4

*1:Semantikとは、《反復的使用のために簡潔に固定された意味、特にテクストのかたちをとったもの》(Krause 1999)。

*2:『人間知性論』第二巻に「同一性と差異性について」の章が加えられたのは第二版においてである(Locke 1694=1980:125)。

*3:社会進化と人格性の対応についてはルーマンの次の記述が示唆的である。《今や社会秩序の地平において拡散しつつある行態予期は統一的な構造の中では調整されえなくなっているので、もはや異論の余地のない制度的な行態範型に訴えることができなくなっている問題に対して、ますます個人的、人格的な問題解決が発見されねばならなくなった。〔…〕18、9世紀という過渡期においては友情というものが強調され〔…〕このような発展の終末である19世紀には、社会学と「ダンディ」なる人間類型とが現れた。人格性は今や個人として〔…〕理想化された》(Luhmann 1965=1989:74)。

*4:行動主義にも認知主義(心理主義)にも反対する立場をとる点(とくに認知主義における心の個体内主義individualismに対抗する点)においてわれわれは第三世代の認知科学とよばれる生態学的心理学と軌を一にしているが、おそらくその認知論において袂をわかつ。河野(2003)参照。