ルーマンの場合

前提↓

以前、北田本合評会にて質問した内容から、人格論に関わるぶぶん


まず第一部第一章から。

ここではルーマンのコミュニケーション論における、
二つの帰属
が話題にされているかと思います。

【1】行為/行為者への意図の帰属
【2】人格性への帰属

と要約できるでしょうか。

【1】は、E2に先行する振る舞いE1が、E2の「原因」として遡及的に同定され、同時に「意図」がE1の行為者に帰属される、
というプロセス。

【2】は、道徳的コミュニケーションという特異な位相において、E1にさらに先行するような「人格性」を遡及的に想定・措定する、
というプロセス。

ここで素朴に思ったのは、【1】は「いわゆる」人格帰属のことではないのだろうな、ということです。
人格帰属とは、コミュニケーションが観察されたときに、そのコミュニケーションを述語とするような主語を構成すること、というふうにぼくは理解しています。

つまり、出来事E2の原因としての出来事E1を同定する、ということではなく、たんに出来事Eが観察されたときに、それを人格Personに帰属する、ということです。

【1】は、
E2:「Bが殴られた」

E1:「Aが腕をのばした」

意図:「Aには悪意があった」

だと思いますが、
人格帰属は、
E:「『腕』が『のばされた』」

P:「Aが腕をのばした」
という過程のことです。たぶん。
#「腕」や「のばす」という事象次元における意味の措定が先行している必要がありますが。

ぼくの質問というか疑問は、
≪1≫人格帰属に触れずに「行為」と「行為者」への帰属を特権的に取り上げることで、(北田さんが)何をしようとしたのか、つまり「行為」や「行為者」という概念の使用によって得られる利得はなんだろうか、言い換えれば何を捨ててしまったことになるであろうか。

≪1?a≫それとも「人格帰属に触れず」なんてことはなくて、
圧縮されたカタチですでに触れられてしまっているのか。

%%%%%%%以下付録%%%%%%%%

孫引きによる、「人格帰属」について


「人」は、他の心的システムないし社会システムによって観察された心的システムを意味している(Luhmann[1984:155])。それは具体的存在ではなく、コミュニケーションの目標(配分allocationと宛先adressのポイント)のために構成された統一性にすぎない(Luhmann[1988d:339])。
馬場靖雄ルーマンの社会理論』196ページ)

1984はSoziale Systeme、1988dは"Closure and Openness"


このただ回りくどく獲得される概念装置〔Person〕を用いるのは、人物Personが心理システムと社会的システムの構造的カップリングに役立つと言うためにである。
(「『人格』形式」『社会学的啓蒙6』、訳はISHIDOXから)

さらに以下の質問を「敷衍」の名のもとに投げた

【Q】「<構築されざるもの>の権利をめぐって」上野編『構築主義とは何か』(以下[2001])と本書の連続性はどうなっているのか。(連続したものととらえてよいのか)

この質問をするのは、ぼくが本書を読むにあたっての動機付けが、[2001]論文に対してあったであろうリアクション、異論反論批判をどのように消化しているのか、という点にあったからです。

皆さんお読みになってご存知の通り、[2001]論文は本書では


私自身は、歴史記述論などの文脈におけるラディカルな構成主義物語論)に抗いつつ、ある種の実在論を擁護する哲学的かつ政治的根拠があると考えているのだが、この点については別のところ(北田[2001a])で少々論じたことがあるのでここでは割愛させていただく。(59頁)

という風に言及されています。
つまり
「存在の金切り声」が意識・認識・存在者・世界の≪外的なもの≫として実在しているという信念にコミットしていることを、本書においても北田さんはお隠しになられていない。

これって東浩紀が学者だったころに徹底的に批判した「否定神学」ですよね。

確定記述の束には還元されないような残余に他者性・単独性が宿る、といったような。

以前、慶応大の浜ゼミで浅野智彦さんを招いて合評会をしたときに、浅野さんの「語りえないもの」というのはまさに「否定神学」なわけですから、なかば儀礼的に「否定神学」のハナシをふったのですが、そのときの浅野さんの回答は、

【1】否定神学がまずいのは、歴史性を抹消してしまうからだと思う。
【2】しかし、日本では(だったか社会学では、だったか忘れましたが)否定神学的な研究がまだ少ないのだから、一足飛びに「否定神学批判」へ行くべきではない。
【3】でも北田論文がある種の実在論へのコミットを見せたときに盛山和夫が「だったら実証主義でいいじゃん」とかいう変な評価をするのはなんだかなあという感じで、うまくいかないですね。

というものでした。

そのときぼくは「何故否定神学が悪いのか」という疑問に自分自身答えることができていなかったので、ああ、そういうもんか、と流したのですが、現時点では、この問題をスルーできない立場にぼく自身がコミットしているので、ここにこだわらせていただきます。

ラカンジジェクを「否定神学」として一刀両断してみせた東氏は、その後ポストモダン論を展開していくわけですが(ぼくはまるで興味がないですが)、そこでなぜかラカンを使いますね。しかし、その使い方は首肯できるものです。たとえば


東:……小さな物語は想像界大きな物語象徴界で、データベースは現実界にあたる。……ぼくが「データベース」と呼びたいのは、その無数の確定記述の貯蔵庫のことです。……
大澤:ぼくも、東さんのデータベースとは確定記述だというイメージで論考を書いたので、我が意を得たりです。
(『大航海』2002年、No.43)

と言ってるのですね。
ぼくはこの発言でやっと「否定神学批判」がわかった気になれたのですが(大澤氏が同意してるのはまったく理解できませんが)、

つまり、象徴界に開いた穴、世界の外的なもの、固有名・固定指示子、などは「語りえないものの存在の金切り声」という実在ではなく、たかだかデータベースにストックされた確定記述にすぎない

(いいかえれば「構築」という措定の事後に、他にも措定の可能性があったのに、というコンティンジェンシー=データベースをなんらかのアドレス先=ゲシュタルトに投影する態度が否定神学である)、

というわけです。

ルーマン語でいうと、


通常の理解とは異なって、「複雑性の縮減」は、システムと環境の差異の成立を説明しうるような「根本概念」ではない。すでに<システム/環境>の区別がなされているところに複雑性概念が付加された場合に初めて、「複雑性の縮減」について語りうるようになるのである。したがって出発点となるのは、あくまで<システム/環境>の差異である。(馬場靖雄[2001:43-4])

世界があらかじめ複雑なのではなく、<システム/環境>?差異を用いて観察したときにはじめて世界は複雑なもの「である」という記述が可能になる、ということでしょう。

柄谷行人は『探求2』で、
「この女」への固執、ある個体へのこだわりはフロイトのいう「反復強迫」である、あるいはプラトン的な一般性(イデア)への愛である、と書いていますが、ようは、ここが東氏が見出した「柄谷の転回(前期柄谷→後期柄谷)」なのでしょう。

前回、
> ≪1≫人格帰属に触れずに「行為」と「行為者」への帰属を特権的に
> 取り上げることで、(北田さんが)何をしようとしたのか、
> つまり「行為」や「行為者」という概念の使用によって得られる
> 利得はなんだろうか、
> 言い換えれば何を捨ててしまったことになるであろうか。

という質問をしたのは、パースン概念を使わずに「行為者」概念を使ってしまった時点で、「行為」は「行為者」へ帰属されることが自明の前提とされてしまい、「責任」概念を理論的に考察することができなくなるのではないか、ということを危惧したからですが、

#ただしこれは「コミュニケーション」を「行為」として「理解」し、
##とうぜんこの「理解」はコミュニケーションの1アスペクトですが
#かかるコミュニケーションをパースンに帰属したときに
#当該パースンは「行為者」として措定される、
#という過程を、
#過程に対して外在的に記述していれば、危惧は杞憂に終わるわけですが、

北田さんが、上で述べた「ある種の実在論」にコミットしていることを自分で言っちゃってるわけですから、やはり「人格帰属」については述べられることなく、
「責任はある」
「責任は『誰か』がとるもの(べき?)だ」
といった、ある種の信念へのコミットメントが(北田さんには)ある、というのが、現時点でのぼくの判断です。

さらにさらに以下のような「敷衍」をした<ストーカー

『責任と正義』より:


……道徳的コミュニケーションにおいては、(1’)原因とされる出来事E1の、さらなる究極的な原因として行為者の「人格性」が措定され、(2’)かかる「人格性」はあらゆる状況において原因として作用する、とされる。つまり、一般の帰責過程のように《「行為」が原因とされる観察》がなされるのではなく、《「行為者」が、原因とされる行為のさらなる原因として観察》されるのだ。
(27-8頁)

上記の北田引用に


一般の帰責過程のように《「行為」が原因とされる観察》がなされるのではなく、
《「行為者」が、原因とされる行為のさらなる原因として観察》されるのだ。
とあるように、

【1】一般的には「結果」(E2)は「行為」(E1)に因果帰属される
【2】「行為」(E1)は「行為者」(A)すなわち「人格性」(Pt)に因果帰属される

というのが北田さんの【記述】(のひとつ)ですが、
ルーマンの記述では、
 <情報(I)/伝達(M)>-差異の<理解(V)>が「コミュニケーション」(K)
であり、かかるコミュニケーションが「パースン」(P)に帰属される、わけですよね。

当日確認できたことですが、北田語:ルーマン語の対応は、
E1=情報/E2=伝達
です。

(「帰属」を(←)とおいて)整理すると、
ルーマン:P←K(V<I/M>)

北田:Pt=A←E1←E2

となりますね。

で、「責任」概念を理論的に検討することは、「帰責」を検討することと同義、というふうに個人的に感じているので、「帰属」の「***」を検討することだと思われるわけです。

#「***」に「妥当性」とか、「正当性」とか、あるいはなにか他に適切な
#単語を入れてください。

ルーマンの場合、パースンは心的システムと社会システムのカップリングをうまく果たすための概念ですから、パースン帰属自体のコンティンジェンシーを前提にして記述ができます。

つまり
  コミュニケーションがパースンに帰属されることはコンティンジェントである
という命題は「なるほど」と思えるわけです。
しかし
 行為が行為者に帰属されることはコンティンジェントである
という命題は、危うい感じがします。
少なくともぼくには奇妙な命題であるようにみえます。
行為は行為者を、行為者は行為を前提にしてはじめて有意味に理解できる気がします。

そんで「否定神学」批判、とからめて

S ist p.??例:小泉は悪人だ。??
という確定記述の「小泉」は固有名=固定指示子であるわけですが、これが
例2:総理大臣は悪い。
というふうに拡張されることはありうると思うんですね。
で、
例3:役人は悪い。
例4:役所は悪い。
例5:国家は悪い。
……
となることもあると思うのです。

クリプキ―柄谷流の固有名論だと、固有名と一般名詞(個体と集合)を区別し、
 <普遍―単独>セリーと
 <一般―特殊>セリーを
区別することになってますが、上記のように、一般名詞(クラス)が固定指示子として機能することは珍しくないと思うのです。
#「【この】国家は悪い」というthis-nessなしに、
##あるいはthis-nessと同時に、
#「国家一般は悪い」と述べても、「国家一般」が固定指示子
#として機能しているように思えます。

#で、このへんを「家族」定義の文脈で考えてメモしたのが↓
http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/19000202#p1
#にあるので、そちらもご覧いただければ幸いです。

飛躍しますが、北田さんのいう「ある種の実在論」「存在の金切り声」が、この種の「セリー分け」から生ずる「否定神学
 =<剰余>に対する信仰
 =<魂>に対する態度(稲葉振一郎
に陥ってやしないか、というのが「しつもん、そのさん」の主旨です。




この日のエントリがやたら長くなったので、「ルーマンの場合」は次の日のエントリとします。