藤田嗣治展@東京国立近代美術館

本日が最終日で、チケットをせっかく買ったのに行かなきゃもったいないと思い行ってきた。すさまじかった。1910年の自画像(東京美術学校の卒業制作)から1965年の「小さな主婦」まで(66年の「十字架」もあるが)ぜんぶすさまじい。少しの間隙も無くなおかつ変化をみせながら、ほぼ同水準のテンションを生涯保っていて、これは稀有なことだと驚いた。
たいていの作家は、藤田のような時代から孤立したような作家はとくに、どこかで軌道が逸れる瞬間があるものだけれど(ピカソの生涯に落ちがあるように。イサム・ノグチモエレ沼公園のように)、藤田は時代区分がはっきりとできるほどに相貌を変えながらも「あれれ、ここでスランプになっちゃったのかな」と思わせるような時期が一切ない。
生誕120年にして初めて今回のような大規模な展覧会がひらかれるという不運には同情を禁じえない。しかしまあ、その辺の事情については『ユリイカ』の特集を見てください(http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20060501/p2。あと近藤史人による伝記もISBN:4062752921)。とにかくこの人ほど展覧会向きの作家は日本人にはいないのではないかと思う。今回は全3章構成で(二つ下のリンク先参照)、ちゃんとストーリーになってる。1:エコール・ド・パリ時代、2:中南米・そして日本、3:再びフランスへ。という単純なストーリーだけれど、絵がちゃんと変わっている。

http://www.momat.go.jp/Honkan/Foujita/index.html

http://www.momat.go.jp/Honkan/Foujita/list.html

面白いのは1→2の移行期に、あの特徴的な面相筆による輪郭線が一瞬消えるように見えるのだ(「三人の女」「町芸人」など)。その絵だけを見ると藤田の絵であるということがわからないような大きな変化に思える。しかし実際は輪郭線はちゃんとある。藤田の輪郭線については、ぼくは個人的な趣味から、好きではなかったのだけれど、エコール・ド・パリ時代の作品をきちんと見てみると、むしろあの面相筆の線は輪郭線ではなくて「図」そのものなのだ、輪郭を縁取っているのではないのだ、ということがよくわかる。1→2の移行期の、輪郭線はあるけれども消えたように見える作品は、展示リスト上では「色彩の開花」とよばれる区分に位置していて、線で区別された両側で色彩が異なる、字義通り輪郭線として線が描き込まれているために、一瞬消えたような錯覚を覚えさせるのだ。

ところが同じ「色彩の開花」の時期に、中南米で紙に水彩で描かれた絵(「ラマと四人の人物」「メキシコの少年」など)をみると、再び線が回帰してくる。これらの絵もやはりすさまじく良い(今回の記事で「すさまじい」ばっかり言っているけど反復による異化効果などを狙っているわけではなくて、それしか思い浮かばないのだよ)。

どうも藤田は、カタログの論文で知ったのだけど、自分が気に入った部分から線を描きはじめて、一度もキャンバスから筆を浮かせることなく次の部分まで一気に引いてしまうらしい。次の部分に移ったら今度はまたそこからはじめて次の部分へ、とやっていくから、全体を俯瞰したときにデッサンは当然崩れているし、パースペクティヴ(遠近法)が存在しない。そういえば1910年の自画像(卒業制作)の次の絵は1914年(渡仏後)の「キュビスム静物」で、そこから考えると、ああなんとモダンなことよ、と感慨深い。さらに先に指摘したように線は輪郭ではなく図として描かれており、やはり乳白色の作家などではなく線の作家だと思った(ああ、どうも作家性を求めてしまう。この記事は展覧会の数日後ぐらいに書いた方がよかっただろうか。興奮がおさまってないのです)。

戦後の、「私の夢」(1947年)なんかは自己パロディに思えるし(乳白色裸婦像と「猫」のコラージュに見える)、漫画風に描かれた藤田自身が登場する「二人の祈り」(1952年)なども思わず笑ってしまう。ここから「アージュ・メカニック」に代表されるポップ・アートかつアウトサイダー・アートとの連続性は明白に読み取れるし、さらに生涯にわたるテンションの高さとの連続性も保たれている。いやこれは面白いな。というかすさまじい。まったく不自然じゃないもんな。

ああ、とりとめもなくなってきた、やめよう。

最終日ということもあって、人もすさまじかった。入場まで80分待ちとかだった。