レーニン飛行にアイロニーが伴わない件について。

グッバイ、レーニン!』2003年(5/100)

http://moviessearch.yahoo.co.jp/detail?ty=mv&id=318878
http://www.gaga.ne.jp/lenin/


なぜこの映画のタイトルが『グッバイ、レーニン!』なのか、観客は、3分の2ほど映画が進行するまで知らされない(それまでは、たんに社会主義の能記として「レーニン」という固有名が持ち出されているにすぎない、と勘違いさせられる。http://blogs.dion.ne.jp/dancho/archives/1353219.htmlの方は、律儀にも、腹が立って席を立ったそうだ)。

昔ドイツ語の先生に、あのシーンでのレーニン像はレーニン大通り(現在のランツベルク大通り)にあった本物の像が使われたというトリビアを聞いた*1。むろん、あのシーンがこの映画の物語としての構造を宙吊りにさせる(別に「宙吊り」と掛けているわけではない)。なにしろ本当に「レーニン」に「グッバイ」した登場人物は、母親のクリスティアーネだけなのだから。ラストシーン近く、クリスティアーネが、偽ニュース番組を観て「すばらしいわ」と述べるが、その意味するところがなんなのか、このシーンの挿入によって決定的に宙吊りにされる。

この映画の感想として、「クリスティアーネは本当は事実を知っていて、騙されたふりをしていたに違いない」というものがよくある。だが、このシーン以前にもクリスティアーネが事実を知っていた(息子たちが芝居を続けていることを知っていた)と思う者はいない。レーニン像の飛行という現実を目の当たりにしたことが原因となって、事実に気付き始めた、というわけでもないだろう。「何かがおかしい」という、【世界の一貫性に亀裂を入れるエピソード】のひとつとして、例のシーンは機能する。そのシーン以前には、彼女の世界は一貫したものだった、というわけだ。

多くの観客がそのように思うのはなぜだろう? (ぼくがそのように思わない、というわけではない。映画の構造上、そのように思わざるをえない、ということだ)

レーニン飛行はこの映画の構造を宙吊りにすると述べた。クリスティアーネの「すばらしいわ」というセリフの意味するところがなんなのか、決定不能になると述べた。つまりクリスティアーネは最後まで騙されたままだったのか、事実を知りながらも騙されたふりをし続けていたのか、観客には知ることができない。

おそらく、どちらの解釈も可能だが、どちらの解釈も間違っている。クリスティアーネは、彼女の子どもたちに長年にわたって嘘をついていたことを告白する(ラスト近く、森の小屋で)。父親は西側の女に取られたのではなく、共に西側へと亡命する約束をしていたにもかかわらず、彼女は子どもたちのことを考えて怖くなり、急遽亡命を取りやめたというのである。死ぬ前に一度でいいから夫に会いたい、とこぼす。

ここにきて、主人公アレックスたちの想像していた「クリスティアーネにとっての世界の一貫性」にはすでに亀裂が入っていたことが暴露される。おそらくその意味するところは(「実際に」クリスティアーネの「世界」がどのようなものであったのか、ということは)、アレックスにも、その他の登場人物にも、観客にも、まったく不透明なものである。

むしろ、アレックスたちが想像していた「透明性」が幻想だったことが暴露されるといったほうがよい。「クリスティアーネは本当は…」という感想は、「アレックスは本当は…」と言い換えるべきなのだ。アレックスは、本当に母親が、自分たちが芝居をしていることを知らない、と思っていたのだろうか?

ラストシーンで、「そう思いたい」というアレックスの独白が挿入される。クリスティアーネが「すばらしいわ」と述べる偽ニュースビデオを、丹念に、真剣に制作したアレックスとその友人の作業は、アイロニカルにはみえない。

信じていいかどうかわからない、しかしそのようなことは棚上げして、信じたままで(母親はまだ真相を知っていないはずだと「信じて」)、最後までプランを成し遂げようとしている。意識的にでも、そうでなくとも、「棚上げ」している時点でそれはアイロニーに見えるかもしれない。しかし、そうではなく、ここで主人公はすでに、母親の「不透明性」を取り込んでいる。不透明であれなんであれ、自分のやってきたことに一貫性を与える、そのようなプランの実行が、主人公にとっての作業なのだ。

主人公の作業の成果物への「すばらしいわ」という賞賛は、主人公の作業(それはほとんど、バウハウス的な、工芸と芸術の統合のようだ)の完成への賞賛として、観客はその【言葉に】共感させられる(言葉自体に意味〔=発言者の意図〕は現前していない。言葉のみがただ在り、ただ「すばらしい」という意味にのみ共感させられる)。

もちろん、主人公の幼稚な取り繕いと夢想に、「共感しない」という選択肢はありうる。だがこの映画の主人公は(あるいは登場する旧東ドイツの失業者たちは)一貫して幼稚である。この夢想の幼稚さは重要ではない。重要なのは、すべてを宙吊りにしたまま一貫性を成し遂げようとする、映画の構造の能動性である。

★★★★

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グッバイ、レーニン! (竹書房文庫)

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*1:真偽のほどは未確認。ぼくの記憶違いかもしれない。