0に7を足せるか?

現在学習塾では冬期講習中ですが、今日はある小学3年生の生徒の算数を担当しました。
彼は暗算が苦手のようでした。宿題に、3桁の、筆算による足し算のドリルから出題されていたのですが、4分の1ぐらいしか解いていない。ただ、解いた部分はすべて正答。たぶん覚えたことが混乱していて、突然足し算のやり方がわからなくなったりするのだろう。そういうことは大人にもよくあることだけれど、われわれはそういうとき、すでに解答している部分から、「自分は何をやったのか」を推量し、「何をどうすべきか」を思い出すだろうと思う。初等教育のひとつの目標は、そういった、過去の自分の行為がしたがっていた規則をサーチする能力を身につけることだと思う。

ところで彼は、「117+10」という問題で壁にぶち当たった。「これは計算できない」というのだ。

「7に0を足したらいくつ?」と聞くと、「足せない」という。ひょっとして掛け算での、「0にはいかなる数を掛けても0」という規則をちょっと誤解して覚えていて、つまり「(掛け算の)答えは0」となると覚えているのではなく、「0になるのだから――掛けた行為は無に帰すのだから――掛けることは許されない」と覚えてしまっているのではないか、そして今やっているのは足し算だけれど、混乱して覚えているために、この規則を足し算にも適用してしまっているのかな、とぼくは思った。

しかしどうやらそういうことでもないらしい。いろいろ試行錯誤して「説明」を試みた。図を描き、「皿の上にリンゴが2個のっています。リンゴを7個足すと、リンゴはぜんぶでいくつでしょう」と聞くと、「9個」と即答できる。
今度は何ものっていない皿を描き、「皿には0個のリンゴがのっています。リンゴを7個足すと、リンゴはぜんぶでいくつでしょう」と聞くと、やはり、「わからない」と答える。

最終的に納得してもらえた説明は、ふだんぼくが足し算を行うときの方法論を呈示したときだ。

まず頭の中に5個のマス目を描く(と言って実際に紙に描いてみる)。
となりに5個のマス目を描く。
これでぜんぶで10。
2+7のときは、まずマス目を2個埋める(と言ってマグネットを2個、マス目に置く)。そしてさらにマス目を7個埋める(と言ってマグネットを7個、マス目に置く)。
結果、すべて埋まった5個のマス目と、となりの4つ埋まったマス目が残る。答えは9だ。
では、マスをすべて空にする。これを0とする。これに7を足す(と言ってマグネットを7個置く)。
この時点で、「あ、7だ!」とわかってくれた。
念のために言っておくと、ぼくはつねにマグネットを使って足し算しているわけではない。ただ、頭の中に5のマス目を用意して足し算する、というのは本当だ。30年近くこの方法で計算している。

彼はマグネットを貼り付けていく行為が気に入ったらしく、どんなに簡単な計算でもマグネットを使って計算し始めた。まあ、いずれ計算にスピードが必要になってきたときには、マグネットにも飽きてくれることだろう。

それにしても、ぼくがひっかかるのは、彼の当初の主張「0に何かを足すことはできない」という信念だ。非常に魅力的な主張だと思う。
ぼくたちが、0がかかわっている足し算や引き算を行うことが【できる】のは、0は無などではなく、1次元上の、1から1を引いた位置にあり、-1に1を足した位置にある、相対的な【位置】として理解しているからだ。0を無として理解しては、「無よりもさらにもっとなにもないもの」として「マイナス」という概念を理解しなければならず、そんな不可解なものに付き合ってなどいられなくなる。
ぼくたちはどのようにしてそういった「規則」を身につけたのだろうか?「クワス算」などを持ち出して、数学の根拠を懐疑したいのではない。そうではなく、いったいどうやって、規則を身につけてしまうのだろう、そして他者にとって矛盾をきたさないやり方で「答え」を呈示できているのだろう?

さきにぼくがふだんから使っている足し算メソッドを披露したけれど、あなたが足し算をふだんどのように行っているのか、ぼくにはわからない。「7+8」なんて足し算は、ぼくには即座に答えられるようなシロモノではないので、まず8に7から2を借りてきて足し、10を作る。7は2を貸してしまったので5が残っており、「10+5」という簡単な式に変換できる。こうやってはじめてぼくは「7+8」を計算できる。

これを、「計算できる」とは言えないのではないか、と反駁することもできるだろう。ぼくがやっているのは式の変換と、「10+5」の計算だけであり、「7+8」の計算は断じてやっていないではないか、と。

しかし、「答えの呈示」の段階では、他者にとって矛盾をきたさないやり方で行われる。ぼくがどのようなやり方で計算しようと、相手がどのようなやり方で検算しようと、解答は「同じ(same)」というわけだ。

どうやって「同じ」に成っているのか(成るのか)。解答の文字(エクリチュール)あるいは音声が、記号を生成するからか。数は抽象概念であるからそもそも「脱埋め込み」(ギデンズ)されたものだからか。

ハナシはズレていっている。「0には何かを足すことはできない」という信念から「脱却」させて、ある種の方法論を身につけさせるぼくの行為は、宗教学でいうところの「説伏」だったのだろうか。やって「良い事」だったのだろうか。道徳的判断は括弧入れされなければならないのだろうか。あるいは「道徳的にも良い、なぜなら社会に参加できるようになるのだから」という声にも耳を貸すべきだろうか。
しかし声は多数ありすぎて、ぼくには処理しきれない。
だからこそ、括弧入れが必要とされるのだろうか(ぼくにとって)。


  • 「筆算」という言葉をこういう場合に使ってよいのだったかな?と疑問に思って辞書をひくと、「筆算」は文字を使った計算すべてを指すらしい。困ったな、と思ってググると下記のページが見つかって、まあ、こういう場合に「筆算」と言ってもよいのだと確認した。下のページ面白いです。
  • http://homepage1.nifty.com/moritake/sansu/4/4wari1.htm