イサム・ノグチ展@東京都現代美術館

昨日の土曜日、東京都現代美術館イサム・ノグチ展を観にいった。
イサム・ノグチといえば、戦後来日した際に、慶応大学三田校舎に「ノグチ・ルーム」の室内デザイン・家具製作・庭園・3点の彫刻を制作したことでぼくたちにはなじみが深い。
例のロウ・スクール建設のさいに取り壊しが決定して、塾内で反対運動が起こったことでも有名だ。

ところでMOTでの展覧会だけど、まったくひどいものを見せられた、というのが率直な感想だ。
キュレーターの責任ももちろんあると思う。
展示物は年代順ではなくコンセプトによって分類され、展示の最後には今年完成した北海道のモエレ沼公園の詳細な紹介が配置されていた。
ところがこの「コンセプトによる分類」は、まったく混乱を誘うことがなかった。
ノグチのコンセプトは、初期から晩年までほとんど変わるところがないからだ。
つまり、コンセプトによって分類してみても、分類されている(区別を施されている)相貌をみせない。

この分類のテロスは明白で、展示最後尾に配置されるモエレ沼公園ランドスケープ「作品」をノグチの集大成として意味づける、そのような「文脈」を過去の作品に(たとえば「自然至上的理念」だとか「日本的要素」だとかといった意味を)配分することだ。

キュレーターが作家を愛したり高く評価することは当然のことかもしれないけれど、どうでもいいことをでっちあげてはならない。(そもそもモエレ沼公園はあきらかに失敗作)

しかしキュレーターの責任はそこまでで、単純にいって、この陳腐な作家をここまで陳腐にしているのは個々の作品そのものだった。

芸術作品として「見ていられる」のは、初期、パリ時代の真鍮による抽象的彫刻ぐらいで、あとは、先に言った「自然至上主義」だとか「日本的要素」だとかといった、誤った「意味」を口走りそうになる幼稚な思いつきの「ZEN」的なオブジェに終始する。(アメリカでは鈴木大拙とも交流があったらしいけれど、哲学のことはなにもわからなかったとしか思えないね)


そもそも(ノグチの作品の評価に引き合いに出される)日本庭園みたいなものが「日本的要素」で「自然至上主義」であるわけがない。京都のお寺の庭園を観て、「自然とのつながり」だとか「地球」だとかを感じるかい?そんなわけがない。確かに美しいけれど、それは人工の(artificial)人工性が、つまり「人間」の創造力が「自然の」秩序を凌駕するからであって、「いわゆる」自然の美しさに対する崇高の感情とは異なる。日本庭園なんて、70年代のミニマリズムといったい何が違うというのか。悪しきシアトリカリティにすぎないではないか。


話がそれた。ノグチのブロンズ作品はいかにも中途半端だ。それが悪いわけではなくて、過程を見せることの、つまり視覚に対して対象のアイデンティティを常に留保し続けるという戦略自体はありふれたものではあるにせよ質を貶めるような類のものではなく、嫌な感じをぼくが受けたのは、やはりその「過程」の最終目的(テロス)がモエレ沼公園のようなランドスケープに「結晶化」されてしまうからだ。



あるいはノグチはどこかで踏み外して、モエレ沼という底なし沼に落っこちてしまったのかもしれない。
だとしたらたとえば、ぼくなら、すべての作品を年代順に配備し、くだらない思弁(思想とすらいえないよね)にひっかかってしまった、才能に恵まれなかった老人作家の哀愁を展覧会という形で表現するのも面白いだろうな、などと思ったりもする。

(これは2005年10月24日にmixiで書いた日記の一部をそのままコピペしたものです)