O澤真幸のイチロー論。

Die Gesellschaft der Gesellschaftの読書会@東京女子大@吉祥寺。
Kap1.Ver5,6。いわずもがなのベーシックな定理・公理と、なにゆってっかわかんねーセンテンスの混在。ううむ。

この読書会の楽しみは、毎回終了後に、吉祥寺駅前のちょっといい店selected by twcu教員で飲み食いできること♪

いい感じでアルコールが入って(飲まない方もいますけど)、うまいもの食って、おしゃべり。今回はasian cafe風庵foo-ang。わりと早い時間に入ったので6名席を作ってもらえたけど、あとからどんどんお客さんが来て、待ってるひとたちもいたので、けっこう人気の店なんだと思う。料理は合格点。アジアの各種ビールをとりそろえていてその点もビール好きなぼくにはうれしかった。

持ち出し厳禁のいろんなハナシをした気がするがあまり覚えていない。

覚えているのはid:clinamenさんと大澤真幸大澤真幸らしさ(芸)が遺憾なく発揮されている論考はどれか、ということを話したこと。吉川さんは「カントール対角線論法を使ったホメロス論」「理想→虚構→不可能性図式、及びアナグラムをもちいた『砂の器』論」を挙げておられた(後者は『現実の向こう』に所収なので帰りにさっそく購入)。

ぼくはなんといっても早稲田文学』2002年1月号所収のイチロー論「三振する技術」を推したい。

まず大澤は、イチローの「僕は、まだ、三振する技術を身に付けていない」というセリフを真面目に受け取り、「三振する技術」を技術の至高の到達点とみなすこと、その技術は何を核としているのかという問いを立てる。

ここで江夏豊が引き合いに出される。1968年(!)、江夏はシーズン奪三振数の世界記録を樹立した。このときのエピソードは、とても面白い。

江夏は、チームの先輩村山実に言われたこともあって、王貞治を自分のライバルと見なしていた。だから、稲尾を破る新記録の三振は、必ず、王から奪うと公言していた。九月十七日の阪神・巨人戦に、江夏は先発した。稲尾の記録まであとわずかの段階である。この試合でも江夏は好調で、四回に、王から、この試合八個目の三振を奪った。江夏は、新記録を樹立したと思って、意気揚揚とベンチに戻ってみると、それは彼の計算違いで、まだタイ記録だと言われてしまう。王によって新記録を樹立するためには、王までの八人の打者から三振を奪ってはならないことになる。無論、だからと言って、打たれて、点を取られたら意味がない(この試合は、阪神が首位巨人に勝率にして五厘のところまで迫った三連戦の初戦で、首位争いの天王山だった)。江夏は、しかし、この離れ業をやってのけたのである。王までの八人の打者に三振させなかったのだ。四回まで、アウトの三分の二を三振で取ってきた投手が、である。しかも、八人の中には、投手を含め簡単に三振してしまいそうな打者も含まれていたのだ。にもかかわらず、江夏は、これら八人の打者のバットにきっちりとボールを当て、その上で、九人目の打者である王を、空振りの三振にきって取り、公約を果たしたのである。ちなみに、この試合は投手戦になり、延長にまでもつれこむのだが、最後にサヨナラヒットを打って試合に決着をつけたのは、江夏自身であった。[41頁]

ここから、投手の〈三振させる技術/三振させない技術〉と、打者の〈三振しない技術/三振する技術〉を相補的関係として理解すべきであるとする。

すぐれた投手は三振させないことも可能であるということの事例として、ここで『巨人の星』における「大リーグボール」の様相論的区別が導入される。

簡単に言えば、これら三つの魔球は、記号論的とでも形容すべき、相互的な参照・対照の関係をもっているのだ。一号と三号は、二項対立的な関係にある。前者は、バットがボールにどうしようもなく当たってしまう魔球、当てたくなくても当たってしまう魔球であり、後者は、まったく反対に、バットがボールにどうしてもあたらない魔球であり、当てようにも当たらない魔球である。一号は、バットとボールの遭遇を必然化する魔球で、三号は、その遭遇を不可能化する魔球である、と言ってもよいだろう。そして、二号は、こうした対立の、ちょうど中間項の位置をしめている。ボールが途中で見えなくなるということは、バットがボールに当たるということを純粋な偶然に――闇雲にバットをふったときにまぐれで当たる場合以外にはバヅトにボールが当たることはありえないものに――転換することを意味するからである。つまり、二号においては、必然性(一号)と不可能性(三号)がともに否定されているのである。三つの魔球は、論理的な三つの様相を代表していることになる。[43頁]

そして、一号は投手の「三振させない技術」に相関し、三号は「確実に三振を奪う技術」に相関する。

ここでいよいよイチローの持つ技術の分析に入ることになる。

大澤は2001年度シーズンの一シーンをとりあげ、顕在的な第一のストーリー(ストレート)の背後にある潜在的な「他でもありえた」ストーリー(カーブ)が、その現実としての地位を第一のストーリーから奪い取ったかのような印象を与える(第一のストーリーを偶有化する)、そのようなイチローの打撃技術を「潜在的な現実を、顕在的な世界へともたらす魔術のようなものであるとみなすこともできる」とする。

私は、かつて、江夏の落合博満へのアドバイスをもとに、投手を圧倒するような大打者は、「この一球」を待つことができなくてはならない、と論じたことがある。「この一球」という語は、江夏が使った言葉である。江夏によれば、打者は、さまざまな球種やコースの可能性を予想しながら(言わば迷いながら)投球を待ってはならず、「この一球」と指し示すことができるような単一のボールを待つことができなくてはならない。ストレートにも、カーヴにも対応できるイチローは、一見したところでは、江夏=落合の「この一球」を待つ態度とは異なった姿勢を示しているように思えるかもしれない。だが、ここまでの考察は、イチローのやり方が「この一球」を待つ態度と矛盾してはいない、ということを示している。実際、イチローは、「この一球」、つまりストレートを待っていたのだ。イチローは、ストレートを待っていたのにカーヴを打つことができたというより、ストレートを待っていた【がゆえに】、つまり「この一球」を待っていた【がゆえに】、カーヴも打つことができたのだ、と解すべきではないか?

(中略)

同じことは、「この一球」についても言える。「この一球」を特定する単一性に焦点を合わせている、まさにその限りにおいて、「他でもある」という偶有性に同時に志向することができるのだ。イチローが、「この一球」を待つことによって、かえって、広い可能性へと対処できた仕組みは、固有名のもつこうした両義性に類比させることができる。だが、それにしても、イチローが、なぜ、あれほどの短い瞬間に、タイミングの見事な切り替えをなしえたのか、そのことは謎である。[47-48頁]

さてここで「謎」が提起されるわけだが、ここで、まってましたの〈求心化‐遠心化〉図式が登場することになる。

結論は実際に論考をお読み下さい(入手が難しい方はおっしゃっていただければなんとかします)。