誰について取り上げられているのかをそのつど知らないわけにはいかない。

個人が、具体的で経験的な、物理的‐化学的‐有機体的‐心理的な側面を有する統一体であると真摯に考える者は、個人を社会システムの部分であるとみなすことは不可能である。そのことにくわえて、きわめて多数の人間が存しており、したがってきわめて多種多様の人間が存在しているのであり、したがって、「人間」がテーマになるばあい、誰について取り上げられているのかをそのつど知らないわけにはいかないということが銘記されなければならない。行為理論の視角から「主体」にアプローチしている従来の社会学に対しては、そうした通常の社会学が人間を真摯に考察せずに、人間についての経験的な指示物を欠いた、曖昧模糊とした概念構成物を分析対象に仕立てていると非難されてしかるべきなのである。
日本語版への序文:vi頁]