バトラー

ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱

ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱

政治的、言語的な「表象」領域が、主体を形成するさいの基準をまえもって設定してしまい、その結果、主体として認知可能なものだけが表象されることになってしまう。換言すれば、表象されるまえに、主体として存在する資格をまず満たさなければならないということになる。(…)そうなるとフェミニズムの主体は、解放を促すはずの、まさにその政治システムによって、言説の面から構築されていることになる。(…)「女」を解放する目的があるからといって、無批判にそのようなシステムに訴えることは、明らかな自滅行為となる。(Butler[1990=1999:20])

そもそも認識論的に仮定されたものでしかない異性愛の体制が、じつは存在論的な見せかけをとるカテゴリーを生産し物象化している(…)[ibid. :8]。

むしろ身体は、《政治的に意味付けられ維持される、個人的かつ社会的な一対の境域》(Butler[1990=1999:73])であり、そもそものはじめから政治的に存在しているものなのだ 。「身体という意味」を担ったもの以前の、「意味のない身体」を想像することは、倒錯/錯覚なのである。バトラーは、「意味の体系」と「意味付けされる実体」、という構図――それはいわば権力と被抑圧者という構図だろう――を棄却する。そして彼女は、反復される言説の中に権力を見出したフーコーの議論を引き継いで、反復される行為の中にジェンダー・カテゴリーの再生産をみている。言語行為論の言葉でいえば、ジェンダーとは行為遂行性performativityなのである。

ジェンダーはつねに「おこなうこと」であるが、しかしその行為は、行為のまえに存在すると考えられる主体によっておこなわれるものではない。(…)ジェンダーの表出の背後にジェンダーアイデンティティは存在しない。アイデンティティは、その結果だと考えられる「表出」によって、まさにパフォーマティヴに構築されるものである。[ibid.:58-59]

ジェンダーとはオリジナルのない一種の模倣》(Butler[1991=1996:124])

法の権力は、単に表象/代表しているにすぎないと言っているものを、じつは不可避的に「生産している」のである。したがって政治は、権力のこの二重の機能――法制機能と産出機能――に注意を払わなければならない。実際、法は「法のまえに存在する主体」という概念を生みだし、そののちそれを隠蔽するが、その目的は、言説による形成物であるにもかかわらず、それがすべての基盤をなすきわめて自然な前提として、そして次には、法の規制的な支配を正当化するものとして、引きあいにだすためである。(Butler[1990=1999:21])

セックスの「名づけ」は、支配と強制の行為であり、性差の原理に添うように身体を言説/知覚によって構築するよう要請し、そうすることで社会的現実を作りだし、かつそれを合法化する制度化されたパフォーマティヴィティなのである。[ibid.:206]


Bodies That Matter: On the Discursive Limits of

Bodies That Matter: On the Discursive Limits of "Sex"

《これはアイデンティティ・カテゴリーを使用しないようにという議論ではなく、使用するたびについてまわるリスクを思い出させる》(Butler[1993=1997:163])

だから、クィア主体の批評はクィア・ポリティクスの民主化の継続に欠かせない。アイデンティティ用語は使われるべきであり、「アウトであること」が確信されるべきであると同様に、これらの概念はこれら自体が生産する排他的作用を批判されなければならない。「アウトであること」は、だれにとって歴史的に利用でき、経済的な選択であるのか?(…)だれがこの語のどのような使用によって描写されるのか、そしてだれが排除されるのか?[ibid.:162]