加藤秀一「身体を所有しない奴隷――身体への自己決定権の擁護――」

加藤秀一、2001、「身体を所有しない奴隷――身体への自己決定権の擁護――」『思想』922

  • 奴隷は存在しない――行程の探照

私の身体が私のものでないとき、私は奴隷である。だが奴隷である私の身体は、いったい誰のものなのだろう?……〈奴隷〉の身体は〈奴隷主〉のものである。……すなわち、ある奴隷の身体が奴隷主のものであるとき、なにゆえそれを奴隷の身体と呼ぶことができるのか。ある身体が奴隷主のものであるならば、それは当然、奴隷主の身体ではないのか。私以外の他人のものである身体を、どうして私の身体であるなどと呼べるのか。(加藤 2001: 109)

奴隷とは、たんに私のものである身体を奪われた存在のことではない。奴隷が奴隷であるならば、奴隷の身体は存在しない。それこそが奴隷という存在の本質である。……奴隷は存在しない。完璧な奴隷は、その存在そのものを、すなわち「私」として存在することそのものを抹消されている。(加藤 2001: 110)

  • 一 「私の身体は私のものである」――自己所有への二重の問い
    • 問いの背後
    • 〈私の身体〉は占有/所有を含意しない
  • 二 〈私の身体〉とは何か――〔存在と所有をめぐって〕
    • 三つの二重性

何かが〈私の身体〉であるとはどういうことだろうか。……〈私の身体〉とは、〈私〉から(少なくとも概念上)切り離された単なる物件ではなかったはずなのだから。それは〈私〉の存在そのものと切り離しえない(注3)だからここではむしろ、〈私〉の存在を支えている〈私の身体〉というあり方とは何なのか……と問うべきだ。(加藤 2001: 115)

(注3)単なる臓器や骨や血液その他の寄せ集めではない「身体」とは、本質的に〈誰かの身体〉であり、そこから切り離されれば、そもそも「身体」ではなくなってしまう。(加藤 2001: 131)

    • 私によって占有取得されない身体もなお〈私の身体〉でる
    • 他人による占有・処分は〈私の身体〉を破壊する
  • 三 抵抗としての所有権/所有権への抵抗
    • 〈私〉を抹消する性暴力

〈自己決定権〉は、従来の〈自己所有権〉の延長上にではなく、それとは別の水準に照準する概念として措定されねばならない。(加藤 2001: 125)

    • 身体を所有しない奴隷としての「女」

「私たちは自分の身体をまったく無媒介に〈所有〉(own)できるとか、〔反対に〕私たちが自分の身体を〈所有〉しているという観念そのものがそれ自体として幻想であるとかいうことではない。そうではなくて、〈自分のモノ〉(own)としての自分自身という感覚は、自分が一個の自己であるという感覚のために欠くことのできない投射なのである」(Cornell[1995: 85])。

ここに投射という概念が登場することからもうかがえるように、コーネルは精神分析理論を援用しながら、〈私=私の身体〉という自己の統一性そのものの形成メカニズムを分析している。私たちはあらかじめ統一された身体存在であるのではない。「私たちが自分の身体をもっている〔所有している own〕という観念は、先取りされた未来のなかにつねに留まっているものを、完成されたものとして想像してしまう幻想である」(Cornell[1995: 40])。だがそのような想像の投射こそが〈私=私の身体〉を成立させるのだとすれば、それが阻却されることはすなわち、〈私〉の破壊であるほかにないだろう。(加藤 2001: 125-6)

すでに在る〈私〉が、自分にとって外的な対象とのあいだに結ぶ関係が「所有」である。それに対して、〈私の身体〉という表現を有意味にするようなあり方で〈私〉が存在し続けることを支える決定、いわば〈私〉そのものに先行する決定を、〈自己決定〉と呼ぶのである。

〈私〉は本質を持たない。〈私〉は特定の性質によって、それゆえに〈私〉なのではない。それが通常アイデンティティと呼ばれる水準であるとすれば、〈自己決定〉が護るものはアイデンティティではない。それは〈私〉という「存在」そのものなのである。

    • 歓待の掟――行程の接続