馬場靖雄「機能分化と『主体性』」

馬場靖雄、2001、「機能分化と『主体性』」日本社会学会第74回大会報告

……多様なものを統一的なものへと包摂することよりも、統一的なものを多様なものへと分解する(開いてやる)ことのほうが重視され好まれているようだ。……この種の試みは、研究戦略上確かに大きなメリットを有している。すなわちそれは無限に反復可能なのである。一見すると多様に見えるものが、実はまだ自己同一的な枠組に囚われており、真の多様性を考慮していないばかりか、それを抑圧していると指摘すればよい。(馬場 2001)

非言説的介入を、言説の「外」にある「現実」と見なして、ポジティブにであれネガティブにであれそれを言説に対置しようとする議論は意味を持たない、と。(馬場 2001)

主体の再建は統一性によって多様性に抵抗する試みであり、主体の解体は多様性によって統一性に抵抗する試みである。どちらも必要となる局面があるのだろうが、結局のところそれらは区別そのものを──したがって「主体」という問題構成を──延命させる結果になる。(馬場 2001)

つまり「同一的な枠組は仮象にすぎず、現実にはそれは無数の力の政治的闘争によってそのつど構築される」云々と主張することによっては、旧来の主体概念の外に出ることはできない。そのようなビジョンも〈統一性/多様性〉という単一のハイアラーキーの内部において投企されている以上、やがては反動として普遍的審級を再召還することになるだろうから。(馬場 2001)

(注14)そもそも機能概念に関しては、事実/当為というこの峻別は成り立たない。腕時計、農夫といった概念の定義は、それらが固有に果たすものと期待されている目的or機能に基づいて定義される。したがって腕時計という概念はもともと、よい腕時計という概念から独立には定義できない。人間もかつては機能概念であった。現実の(堕落した)人間/完全な人間/前者を後者へと変換する道徳、という三点セットにおいて扱われてきたのである。歴史的文脈の中で第二項が脱落したとき、それ自体として存在する個人(非機能概念としての個人)のなかで道徳を基礎づけるという絶望的な試みが生じてきたわけだ。その失敗は、この歴史的文脈のなかでとらえられるべきであって、道徳そのものの不可能性を意味すると解釈されるべきではない(MacIntyre 1981=1993, 64-77)。(馬場 2001)