馬場靖雄「正義の門前」

馬場靖雄、1996、「正義の門前」『長崎大学教養部紀要(人文科学篇)』第37巻第2号

(5) Cornell [1995c:39f.]では、同一性と「未来の想起」の関連という同様の議論が、ラカンの「鏡像段階」との関連で展開されている。鏡像段階の幼児が、鏡に映った自分の姿を見て喜びを感じるのは、そこに未だ達成されていないもの(統合された自己)を見いだしうるからである。この喜びは、未来を投企することによって生じてくるのである。これは幼児に限らない。人格の統一性にとっては、想像の領域(the imaginary domain)における投企が不可欠である。われわれは、未だ存在しないものの投企に基づく人格のこの統一性が、しょせんはイマジナリーなものにすぎず、またしたがってきわめて傷つきやすいということを知りつつも、それを擁護しなければならないのである(カントのas if として)。(馬場 1996: 155-6)

近年のルーマンの理論展開のなかでは、オートポイエーシス(・レベルにおける作動)/観察という区別がひときわ重要なものとなっているように思われる。両者の関係は、一般には次のように理解されている(というよりも、筆者はかつてそのように理解していた)。社会システムにおいてはコミュニケーションが作動に相当する。コミュニケーションは常に個人の意図や予想範囲を超えて、無限に錯綜したネットワークを形成する。そのようなネットワークそれ自体を同定することは不可能である。それゆえに、何らかの区別(二分図式)を導入することによって対象を同定しなければならない。システムが同様の手続きによって自身を観察しつつ、自己のアイデンティティを確定しようとするのが「自己観察」である。ただしそうやって同定された対象は、常に何らかのかたちで単純化(「複雑性の縮減」)を被っており、それゆえに「空虚」と「過剰」を孕んでいる。この空虚ないし過剰は、区別が自分自身の上に折り返されるときに生じるパラドックスというかたちで顕現する(合法/不法という区別自体は合法か不法か、etc.)。システム理論は、システム/環境という区別(両者の複雑性の格差)を用いて、自己観察が隠蔽しているこのパラドックスを暴露するのである、云々。(馬場 1996: 149)

メルロ=ポンティに依拠する一部の論者などは、しばしば身体を、言説という表層を可能し規定する錯綜した深層ないし根底として想定する。しかしルーマンにとっては、身体レベルで生じることも、例えば一定の反応が生じる/生じないという図式を用いた作動であるという意味において、観察なのである。そしてさまざまな観察のあいだの関係は、厳密に水平的である(Luhmann/Fuchs[1989:217f.])。表層から深層へと下降しても、そこにおいて見いだされるのは最初と同じ表層レベルなのである。(馬場 1996: 150)